2009年01月

私がお肉を食べなくなったわけ

お肉を食べなくなりました。
いわゆる、ベジタリアン。
去年の7〜8月くらいからかなぁ。徐々にね。

魚はたまに食べるので、「
ペスコ・ベジタリアン
」っていう種類の
ベジタリアンですね、私。
ベジにもいろいろあるんですよ。
卵や乳製品は、できる範囲で食べてません。

もともとは、こころとからだの健康のために
マクロビオティックな食生活にしていってみよう!と
思い立ち、ちょっとずつ実践し始めたのがきっかけでした。
マクロビオティックについては、また別の機会に。

最近は、友達と飲みに行っても食べないことにしたので、
「あ、私、お肉は食べないから」って先に言っちゃいます。
そうすると「なんで食べないの?」って聞かれます。

たいてい
「うーんとね、いろいろ理由はあるけど、主な理由は健康のためかな」
って答えてます。

嘘はついてないけど、言いたいことは全部言えてないもやっとした感じ。

でも…、
1キロの牛肉を生産するのには約12〜20キロの穀物資料が必要で、世界中でたくさんの人がお肉を食べたいがために、それよりもっとたくさんの人が飢えていて、たくさんの子供たちが死んでるんだよ、とか、より売れるお肉を、より安く、より早く作るために、牛が牛を食べさせられたり、
合成ホルモン注射を打たれたり、鶏や豚だって、抗生物質漬けになったり、薬品まみれになったりしているんだよ(そしてそれを食べるのは誰?)、とか、畜産用の土地を確保するために世界中で森林が伐採されたり、牛や豚の糞尿で水や土が汚染されているんだよ、とか、お肉を食べ続ければ食べ続けるほど深刻な病気になる可能性が高くなるんだよ、とか…
今から美味しくお肉を食べようとしてる人たちに言える勇気が出ないんだもん。

これから、少しずつ言えるようになっていけるといいかなって思ってますけどね。少しずつ食べるお肉の量を減らしてったように。
だって、私ひとりが食べなくなることで、その現実を変えられるとは思っていない。伝えるための手段として、表現として、食べないことを選んだって理由もあるから。


「ベジタリアン」と聞いて、動物愛護的な理由がすぐに頭に浮かぶ人もいると思うけど、私はそういう倫理的な理由の割合は、今のところとても少ないです。
その理由も持とうと思えば持てるけど(動物好きだし)、持つとけっこう苦しいんじゃないかなーって。自分自身今までずっと食べてきたってのもあるし、お肉を食べてる人々を責めてしまいそうってのもあるし。敢えて持たないでおいてます。
何の本で読んだか忘れたけど、動物を食べることについて、ずっと頭に残っている文章があるのです。

「動物は、自分たちが人間に食べられることを悲しくは思っていない。ただ、感謝して食べてほしいとは思っている」

本当かどうかはわからないけど、単に都合のいい言い訳とも感じない。イヌイットの人たちをはじめ、動物を食べないと生きていけない人もいるでしょう。私の好きな本『神との対話』の中にも「宇宙には、しなければいけないことも、してはいけなこともない。」といった言葉もあります(意味を取り違えないように注意は必要だけど)。
植物だって、動き回らないけど、いのちであることには違いない。

だから、大事なのは、「いのちをいのちとして大事にして、感謝していただく」ことだよね。これからもお肉を食べようと思っている人を、否定はしないけど、いろいろ考えてみてほしいなーとは思っています。ただ、そこにあってみんなが食べてるしそれなりに美味しいから特に何も感じずによく考えもせずに食べ続けるんじゃなくて、ね。


この話題は、書きたいことが多すぎて、「いつかまとめて書こう、いつか…」と思って先延ばしにしちゃってたんだけど、ずいぶん前から書こうとは思ってました。みんなの反応が楽しみで…(笑)。
といっても、船関係の友達だったら、周りにベジの友達のひとりやふたりいるって人もいるだろうから、そこまで珍しい話題でもないかもしれないかな?

今日ここにやっと書こうと思ったのは、「肉を食べないなんてわがまま!」と家族のうちの一人に言われたからです。
「お肉食べないことにした」とは言ってあったけど、“いろいろな理由”の方は、居酒屋で友達に言えないのと同じ理由で、なかなか話すことができないでいた。それでも、親は「あ、そう。食べないの。その方が健康にいいかもね。」くらいな反応だったから、何も困らなかったのね。
でも、今日その言葉を言われて、「あーやっぱいろいろ考えてこうしてるってこと、伝わってないのかもなー」と思って、少しだけ話したの。
で、じゃあ話したついでにブログにも書いておこうかな、と思ったのでした。

また、詳しく書けたらいいなと思ってます。
一気に書こうと思うからいつまで経っても書けないんであって、中途半端でもいいから書き始めちゃえば、きっとぐちゃぐちゃながらもつながっていったりするよね。しますように…!

最後に、「
肉を食べないなんてわがままじゃない!?」に対する、私が言いたかった答を代弁してくれている文章を紹介します。奥津典子さんというマクロビオティックのインストラクターの方が書いた『ORGANIC BASE マクロビオティックと暮らす』という本から。長いですけど、読んでくれたら嬉しいです。

[よくいただくご意見2]…「肉を食べないなんて、贅沢じゃない?わがままじゃない」

個人的にあるものをいただく、という考え方は共感する部分があります。しかし、本当にそうでしょうか。
そもそも、牛一頭育てるのに、どれだけの飼料とエネルギーがいるのでしょうか。それを植物・穀物として全世界の人口に分布させたほうが効率はよくないのでしょうか。また、牛や豚の暮らす小屋、屎尿を洗い流すのに、どれだけの水が使われどれだけそれが環境汚染につながっているでしょうか。あるいは、生き物たちは幸せなのでしょうか。ペットは大事だけど、牛は大事じゃないですか。
また、自分たちの健康を損ねるような食生活はわがままではないでしょうか。私たちの体は、私たちだけのものでしょうか。私たちは私たちのものであると同時に、先祖のもので子孫のもの。もっと言うと他人のものである、と思っています。だって、私たちが病気になって困るのは自分たちだけですか。家族も困るし、現実的な話で、医療保険費の問題は、私たちみんながアタマを抱えている問題になっていないですか。日本語でいう「我々」とは、この世界の「ワレワレ」、「部分」だとのこと。だからまず、自分を大切にすることがみんなを大切にすることでもあると思うのですが、いかがでしょうか。
自分を大切にしない食べ方こそ、わがままだと私は思います。そうは言っても、つきあいのことで悩みもします。それを断ることもまた、つまらない生き方だと思うからです。だから、それは「ほどほど」に。自分なりのバランスを見つけましょう。そして、少しずつ、みんなで変わっていきましょう。こんなに肉を食べなくてもいい世の中にしていきましょう。
みんなが肉を食べるのをやめてしまえば、もちろん畜産業の方は困るでしょう。でも、人類が肉食をやめるのに、あと数十年、もしかしたら100年以上かかると思います。その間に徐々に、社会構造、生活スタイルというものも、変化させていく必要があるでしょう。そしてその大変さはみんなで負っていくしかないと思います。だって、今の生活を選んだのは、ほかならぬ私たち自身なのですから。


自分がベジタリアンになるとは思ってなかったけど、なってみたら、けっこう楽しいもんです。料理も好きになったし、本当の意味で美味しくて安全で、心のこもった料理を食べさせてくれるお店もたくさん発見中…!な今日この頃です。


私が影響を受けたり、参考にしたりした本。

『ORGANIC BASE マクロビオティックと暮らす』
 奥津典子  ビジネス社


久司道夫のマクロビオティック-入門編』
 久司道夫  東洋経済新報社


『病気にならない生き方』
 新谷弘実  サンマーク出版

『いのちの食べかた』
 森達也  理論社(よりみちパン!セ)

『ぼくが肉を食べないわけ』
 ピーター・コックス  築地書館

『そろそろスローフード』
 島村菜津+辻信一  大月書店(ゆっくりノートブック1)



Not All or Nothing, but Better than Nothing.

Thanks for reading !! xxxx

どうしたらいい?どうしたらいい?

昨日は、TSUTAYAにDVDを返しに行かなくちゃいけない他は特に何も予定がなくて、ごろごろ〜っと休日を満喫していたんだけど、12時過ぎにmixiを開けたら、何人かの友達が日記に同じ告知をしていた。

「ガザに光を!
 即時停戦を求めるピースパレード」

今から行けば間に合う。行こうか行くまいか。行けば誰かしらに会えるかな…?でも、会えなかったらひとりで歩くってことか。ま、それもありかも。いや、今は疲れてて、今日は休みたい。いや、でもここで動かないと、この先もっと動かないんじゃないか?あんまり人に会いたくない気がする。いや、すごく誰かに会いたい気がする。ピースパレードくらいじゃ、イスラエルは攻撃を止めたりしないってば。いや、直接的な影響がどうとかじゃなくて、世界が変わるためにはまず私が変わらなきゃでしょ
!?、そして、大きな変化はいつも、小さな変化からでしょ!?どうしよう、どうしよう。

悩んで、一旦はやっぱり行かないで今日は休もうと思ったけど、あっちゃんのブログの書き込みに、似たような気持ちのじゅんちゃんを見つけ、あ、行こう、って思って、すぐに準備した。

TSUTAYAには、延滞料金払えばいい。



16時頃に芝公園でじゅんちゃんと合流し、そこから六本木まで、たくさんの人と一緒に歩いた。むちゃくちゃ寒い中を、約1時間半。私にとっては、約3年ぶりのデモ。今回は、プラカードを持ったり、メッセージを叫んだりはしなかった。けど、この場所に来た、という行動から、また始めていきたいと思った。私がここに来たことそれ自体が、世界を変えられるわけじゃないかもしれないけど、来なかったよりはいくらか「マシ」だろうと思った。考えて考えて、何も行動しないよりは、大して考えてなくても、直感にまかせてさらっと決めて、とっとと行動しちゃった方のが「マシ」な時はたくさんあるのだから。どちらが正しくて、どちらが間違っているとかじゃない。それを言い出したら、イスラエルとパレスチナ、どちらが善で、どちらが悪か、みたいなこと言ってるのと大して変わらないと思う。世界はそんなに単純じゃない。




返さなきゃいけないDVDのうち1本は、まだ見てなかった。

「ホテル・ルワンダ」

ハッピーエンドになり得ないことがわかりきっている映画を見るのには、エネルギーがいる。この映画が終った時、物語に入り込んでいる私の時間軸では、100万人ものルワンダ人が殺されるのだ。でも、それは実際に起こったこと。しかもほんの15年前のこと。ただの物語じゃない。ただ私が、知らずに生きてきただけ。

つらかった。けど、見てよかった。

高校の地理の授業で教わった、知識のしての「ルワンダにおけるツチ族とフツ族の争い」は、私に何も伝えていなかったのと同じだったかもしれない、と思った。もちろん、何にも知らないよりは、知識としてだけでも知っていた方がいいということもあるのだろうけど。「あぁ、ツチ族とフツ族のルワンダ内戦ね。知ってる知ってる」っていう自分がどこかでいたのも確かで。

この映画を見た今の私だって、何を知っているのかと言われれば、2時間分の凄まじく悲しいストーリーでしかないのかもしれない。本当にどれだけ凄惨なことが起こったのかを、私は知らないままだ。けど、少なくとも、「どうすればいい?こんな狂気の地獄絵図を繰り返さない世界にしていくために、私は、どうすればいい?どうすればいい?」と苦しくなりながら考えた。答えは簡単に出ないけど、答えの足しにもならないような、でもやらないよりは「マシ」な何かを始めることは、今この瞬間からでもできる。そして、「マシ」を積み重ねることは、思考停止にならないためにとても役立つと思う。

前にそぎちゃんが教えてくれた「知ることは、感じることの半分も重要ではない」っていう言葉を思い出したよ。



C・ダグラス・ラミスさんの
『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(文庫版解説:辻信一さん)には、「この100年は、国家が
人類の歴史の中で最もたくさんの人を殺した世紀だったということ」が書いてある。しかも、自国民を守るために他国人を殺すのであれば、近代国家としての自衛権の行使という論理が通らないこともないが、実際は他国民の何倍も自国民を殺しているのが事実だと言うのだ…。

「国家」って何なんだろう。どうして国ってあるんだろう。これは、テーマにして勉強していこう。
「国家」はこれからどうなっていくんだろう。私たちはどうしていきたいんだろう。これも考えていこう。


エンディングで流れた歌の一節にこんなのがあった。
「アメリカが“アメリカ合衆国”(the United States of America)なら、

 なんでアフリカは“アフリカ合衆国”になれないのだろう?
 イギリスが“連合王国”(the United Kingdoms)なら、
 なんでアフリカは“アフリカ連合王国”になれないのだろう?
(Million Voices / Wyclef Jean)



なんで世界は…。



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