早くここを越えたいって思うけど、なんとか今をやっつけて、とりあえずでも乗り切って、とにかくちょっとでもマシなところに辿り着きたいって思うけど、でも、今回の失敗はそういう意識から起こしちゃったことだよな、と思う。
もう本当に、ちょっとでもいいから先に進みたかった。まだそんなところにいるのか、って言われるのが、思われるのが怖かった。
でも、そうじゃなくて、不本意な現状でも、周りの全員の期待に答えられなくても、自分に正直に丁寧にやって(どうせできることしかできないんだし)、嫌な気分も味わってみて、逃げたい逃げたいって思うんじゃなくて、そこから得られるものを得て、不安なら不安と声を大にして、できないならできないと言って、その上でその時点でのベストを作り出すことに力を使えばよかったのかな。
未来のために今を大切にしないことが、嫌。辻さんが本の中で言っていた、常に先のことのために今を犠牲にしている現代人たち。で、気付いたら人生終ってたりして。
今にも泣き出そうと思えば泣き出せるのに、なんとかこらえて平気そうな顔が出来るようになった自分が、なんか大人になったもんだなぁなんて思ったよ。別に、悪い意味だけでなく、もちろんいい意味だけでもなく。
でも今日、こんなことにしてしまって申し訳ないとは思いながらも、なんとなく自分の身に起こってることじゃないようなちょっとふわふわした感じもあった。メタ認知がちょっとでもできるようになってるのかな。あー自分今、かなり気まずい立場にいるなーとか、どんな表情してた方がいいんだろうかーとか、ここで「すみません」って言ったら全部自分が悪いって認めることになるんだろうか、ならないんだろうか、とか、こんなこと考えてるなんて私全然反省していないってことになるのかなー、でもじゃあ、自分のせいじゃない部分までひっくるめて「ごめんなさい、私が悪かったです」って言った方がいいのか?いや、それは全然アサーティブじゃないし、責められるだけのことをしたのかもしれないけど、そんな言い方や仕草で責めなくても…いや、私がただ単にその言い方や仕草は言外に責めてると思い込んでるだけなんだろか、こんなこと話してる時間があったら、さっさと巻き返しの作業をしたいなー、でも、そういう「とにかく1分でも1秒でも早く」って考え方が失敗の原因だったとも言えるから、やっぱり時間をとってでも、現状を把握したり、責められたり、次の手順を考えたりするための、ちょっとした立ち止まりは必要なのかもねー、とか、いろいろ考えてて、そういう思考のおかげで、その時は随分泣くのを堪えるとかそういう感じには至らなかったのがありがたかった。
失敗はねー、しといた方がいいんだろうなーって、ちょうど思ってたとこだったんだよ。たまたま石田衣良のエッセイ読んでてさ、そういう話があったから。でもやっぱ実際自分の身に降りかかってくるとなかなか重いですねー。でも、そんなこと言えてるだけ軽いんだろうなー。
失敗をしないようしないように生きていく方法を、たくさん教わってきたかもなーって、ちょっと思った。
泣きそうになりながら、吐きそうな気分になりながら、必死で巻き返しの作業を進めながら(その割に、アプリが重くて遅くてイライラして、そんなイライラしてる自分が嫌になって、の繰り返し)、愚図とかノロマとか言われたことがあったり、言われて生きてきたりした人の気持ちがちょっとわかったように思った。私は今までの人生で、そういうことを言われたことはほとんどなくて、どっちかっていうとある程度は器用にこなしちゃったりとか、こなせそうになかったら最初からやらなかったりとかして、けっこう「できる子」とか「いい子」とかになろうとしてきたから、そういう気持ちを知らなかったけど、今日はちょっと知ったなって思った。そういう意味もあったのかもしれない。ここ最近はきっとずっとそうだけど、特に今日の私は愚図でのろまで全然できない子だったんだろうと思う。実際に、なんでそんなに遅いのって言われて、自分ではできる限りのことをやってるつもりなんだけど、手違いでやり直したりとか、先に片付けちゃおうと思ったことが裏目に出たりとか、段取り良くやるのが苦手だったりとかで、自信を持って「これ以上の速さではできません」とも言えず…。もうなんかどうしたらいいのか全然わからず、でもとにかく目の前にあるやらなきゃいけないことをやらなくては、と思ってやったけどね。
自分の手持ち分は、昨日よりはマシな状況になったかも。でも、自分の手を離れたやつは、「もしかしたら全部やり直しかも」と言われ、それこそどういう反応すればいいのかわかんなかった。はーーー。
ごめんなさい。でも、ありがとう。
本当は、このことについてもっと話したい。今はどう考えても無理だけど、落ち着いたら。コミュニケーションが全然足りてないと思う。別に仕事に支障がなければ余計なコミュニケーションは必要ないかなって気もしていたけど、それは違うと思った。普段からもっと話してたら、きっと違っただろうなって思うもん。感じるもん。
でも、話したいけど、話したくない。今回のことも、落ち着いたとしても、話すの怖い。そもそも、落ち着いて話そうとしてくれるかな。なんとなくはぐらかされて、とにかく終ったから、次からは気をつけてね、くらいで終ってしまう可能性もあるような気がして(普段の言動から、そう考えられるってことだけど)、そんなんだったらげんなりだけど、でもそれはそれでちょっとほっとしてしまう自分もいるんだろうな。
話したとしても、全然理解してもらえないかもしれない、とも思う。中途半端にしか聞いてもらえないなら、何も聞いてくれない方がマシ、とかも思っちゃう。しかもこの場合、仕事である以上は向こうの論理が通って当たり前だし、「確かに気持ちはわかるけど」っていう枕詞もつけてもらえるとも思えない。どうなるんだろう。自分がどうしたいのかもよくわかんない。その後が気まずくなる可能性があったとしても、やっぱりちゃんと話した方がいいのかな。
でも、ちゃんと話すってことをしたいと思えないくらい、私はもうその人との会話が苦手です。
自分なりに、つらい時こそ笑顔!って思って頑張ってるけど、不機嫌になって沈痛な面持ちでやるよりも今できることを精一杯やらなきゃ!って心構えでいるけど、それがどう思われてるのか、つまり、「こんだけめんどくさい事態を起こしといて、なに笑ってんの」とか「この状況で笑ってられるなんて、反省してないんじゃないか」とか思われてるんじゃないかって、気になっている。なんでこんなに、人の目線やら評価やらが気になるんだろ。もっと自分は自分でいいのにね。
もう本当に、ちょっとでもいいから先に進みたかった。まだそんなところにいるのか、って言われるのが、思われるのが怖かった。
でも、そうじゃなくて、不本意な現状でも、周りの全員の期待に答えられなくても、自分に正直に丁寧にやって(どうせできることしかできないんだし)、嫌な気分も味わってみて、逃げたい逃げたいって思うんじゃなくて、そこから得られるものを得て、不安なら不安と声を大にして、できないならできないと言って、その上でその時点でのベストを作り出すことに力を使えばよかったのかな。
未来のために今を大切にしないことが、嫌。辻さんが本の中で言っていた、常に先のことのために今を犠牲にしている現代人たち。で、気付いたら人生終ってたりして。
今にも泣き出そうと思えば泣き出せるのに、なんとかこらえて平気そうな顔が出来るようになった自分が、なんか大人になったもんだなぁなんて思ったよ。別に、悪い意味だけでなく、もちろんいい意味だけでもなく。
でも今日、こんなことにしてしまって申し訳ないとは思いながらも、なんとなく自分の身に起こってることじゃないようなちょっとふわふわした感じもあった。メタ認知がちょっとでもできるようになってるのかな。あー自分今、かなり気まずい立場にいるなーとか、どんな表情してた方がいいんだろうかーとか、ここで「すみません」って言ったら全部自分が悪いって認めることになるんだろうか、ならないんだろうか、とか、こんなこと考えてるなんて私全然反省していないってことになるのかなー、でもじゃあ、自分のせいじゃない部分までひっくるめて「ごめんなさい、私が悪かったです」って言った方がいいのか?いや、それは全然アサーティブじゃないし、責められるだけのことをしたのかもしれないけど、そんな言い方や仕草で責めなくても…いや、私がただ単にその言い方や仕草は言外に責めてると思い込んでるだけなんだろか、こんなこと話してる時間があったら、さっさと巻き返しの作業をしたいなー、でも、そういう「とにかく1分でも1秒でも早く」って考え方が失敗の原因だったとも言えるから、やっぱり時間をとってでも、現状を把握したり、責められたり、次の手順を考えたりするための、ちょっとした立ち止まりは必要なのかもねー、とか、いろいろ考えてて、そういう思考のおかげで、その時は随分泣くのを堪えるとかそういう感じには至らなかったのがありがたかった。
失敗はねー、しといた方がいいんだろうなーって、ちょうど思ってたとこだったんだよ。たまたま石田衣良のエッセイ読んでてさ、そういう話があったから。でもやっぱ実際自分の身に降りかかってくるとなかなか重いですねー。でも、そんなこと言えてるだけ軽いんだろうなー。
失敗をしないようしないように生きていく方法を、たくさん教わってきたかもなーって、ちょっと思った。
泣きそうになりながら、吐きそうな気分になりながら、必死で巻き返しの作業を進めながら(その割に、アプリが重くて遅くてイライラして、そんなイライラしてる自分が嫌になって、の繰り返し)、愚図とかノロマとか言われたことがあったり、言われて生きてきたりした人の気持ちがちょっとわかったように思った。私は今までの人生で、そういうことを言われたことはほとんどなくて、どっちかっていうとある程度は器用にこなしちゃったりとか、こなせそうになかったら最初からやらなかったりとかして、けっこう「できる子」とか「いい子」とかになろうとしてきたから、そういう気持ちを知らなかったけど、今日はちょっと知ったなって思った。そういう意味もあったのかもしれない。ここ最近はきっとずっとそうだけど、特に今日の私は愚図でのろまで全然できない子だったんだろうと思う。実際に、なんでそんなに遅いのって言われて、自分ではできる限りのことをやってるつもりなんだけど、手違いでやり直したりとか、先に片付けちゃおうと思ったことが裏目に出たりとか、段取り良くやるのが苦手だったりとかで、自信を持って「これ以上の速さではできません」とも言えず…。もうなんかどうしたらいいのか全然わからず、でもとにかく目の前にあるやらなきゃいけないことをやらなくては、と思ってやったけどね。
自分の手持ち分は、昨日よりはマシな状況になったかも。でも、自分の手を離れたやつは、「もしかしたら全部やり直しかも」と言われ、それこそどういう反応すればいいのかわかんなかった。はーーー。
ごめんなさい。でも、ありがとう。
本当は、このことについてもっと話したい。今はどう考えても無理だけど、落ち着いたら。コミュニケーションが全然足りてないと思う。別に仕事に支障がなければ余計なコミュニケーションは必要ないかなって気もしていたけど、それは違うと思った。普段からもっと話してたら、きっと違っただろうなって思うもん。感じるもん。
でも、話したいけど、話したくない。今回のことも、落ち着いたとしても、話すの怖い。そもそも、落ち着いて話そうとしてくれるかな。なんとなくはぐらかされて、とにかく終ったから、次からは気をつけてね、くらいで終ってしまう可能性もあるような気がして(普段の言動から、そう考えられるってことだけど)、そんなんだったらげんなりだけど、でもそれはそれでちょっとほっとしてしまう自分もいるんだろうな。
話したとしても、全然理解してもらえないかもしれない、とも思う。中途半端にしか聞いてもらえないなら、何も聞いてくれない方がマシ、とかも思っちゃう。しかもこの場合、仕事である以上は向こうの論理が通って当たり前だし、「確かに気持ちはわかるけど」っていう枕詞もつけてもらえるとも思えない。どうなるんだろう。自分がどうしたいのかもよくわかんない。その後が気まずくなる可能性があったとしても、やっぱりちゃんと話した方がいいのかな。
でも、ちゃんと話すってことをしたいと思えないくらい、私はもうその人との会話が苦手です。
自分なりに、つらい時こそ笑顔!って思って頑張ってるけど、不機嫌になって沈痛な面持ちでやるよりも今できることを精一杯やらなきゃ!って心構えでいるけど、それがどう思われてるのか、つまり、「こんだけめんどくさい事態を起こしといて、なに笑ってんの」とか「この状況で笑ってられるなんて、反省してないんじゃないか」とか思われてるんじゃないかって、気になっている。なんでこんなに、人の目線やら評価やらが気になるんだろ。もっと自分は自分でいいのにね。