2010年07月

変人

多くの人が「大変だ」「しんどい」と思うようなことを
でもそれが好きだからついついやってしまう、辛いと思わない、
もしくは、しんどいには違いないけど、やっぱり辞められない、諦めない
そういうのを「才能」というんだ

と、言ったのは誰だったか

自分にとっては好きでやっていることを
人から「すごいねー」と言われると、やっぱり嬉しい
それはもちろん、たまたまその言ってくれた人にとってすごかっただけかもしれないけど
もしかしたら本当に「一般的に」言ってもすごいことだったりするのかもしれない
そこを見誤って調子に乗ったりしなければ
「すごいねー」と言われることを増やしていくとか、
「すごいねー」と言われ続けるための行動をしていくことで、
何かもっとすごいことができる自分になっていく可能性は増していくんじゃないかな


世の中の「すごい」人たちって、変人が多い気がする

多くの人が「大変だ」「しんどい」と思うようなことを
でもそれが好きだからついついやってしまう、辞められない、諦めないってのは、
言葉にすればカッコいいけど、実際にやってる人がいたら、
近くで感じるその雰囲気って「変」なのかもしれない

あ、これは、テレビとかでだけ見たり、その人の本だけ読んでても
わからないことの類ね

「すごいね、よくそこまでできるよね」ってレベルではまだまだ「才能」ではなくて
「おかしいよ!バカじゃないの!そこまでして何がしたいのさ!」くらいまでいかないと
いわゆる「才能」のレベルには到達しないんじゃないかと

あ、これは、今思いつきで書いてるんだけどね

だから、何か「すごい」ことをする人になりたいと思ったら、
まずは変人になることを恐れちゃいけない、
変人として見られることを何とも思わないくらいにならないといけない、
そんな気がする。
(変人にならずにすごいことする人もいるのだろうが)

今読んでる本に、
「個」にならなければ、魂の問題に触れ続けることはできない
っていうようなことが書いてあるんだけど、
それとも、通じるような気がした。

日本では、出る杭は打たれるし、
集団から外れるものは、疎ましがられる
何にも所属していない人に対して、厳しい社会だ

だけど、そういう状況、出る杭であり、集団から外れ自ら「個」になり、
何にも所属しないことを選び取るような人というのは、
やっぱり何か信念があって、
多くの人が「大変だ」「しんどい」と思うようなことを
でもそれが好きだからついついやってしまう、
変人として見られることを何とも思わないくらい、
その、自分が好きなことに夢中になれる、だから
辞められない、諦めない、
そういう人が多いと思う

描きたい気持ち〜上手いか下手かじゃなくて

小学生の頃は、漫画家になりたかった。

『幽々白書』が大大大好きで、『アニメディア』(アニメ雑誌の名前。今もまだあるのか?)にイラストを投稿したりもしてた。今でも、Gペンとかスクリーントーンとかカラス口とか聞くとぴくっと反応します(今カラス口を使っている人はなかなかいないと思うが)。

でも、自分が描きたいと思ってるイメージと、実際に描けるもののあまりのギャップに、「自分は絵が下手なんだ…」とコンプレックスを抱いて、いつの間にかだんだんと描かなくなってしまった。
絵を描かなきゃいけないような機会があると「いや、私、絵心ないんで…」なんて言って、できるだけ描かないようにして大人になってきた。その間に文章が書けるようにもなったし、別に絵は描けなくてもいいや、って思ってた。

だけど。

今年の4月に改めて『ONE PIECE』にハマってから!
私の中の「描きたい気持ち」にまた火が点き始めた。

『ONE PIECE』の作者、“尾田っち”こと尾田栄一郎氏の絵(漫画だから、「画」かな)を見てると、「私もこんな風に楽しく描きたい!」って気持ちにさせられるんだ。
もう本当に、見てるだけで「この人は、漫画描くのが心の底から好きなんだなぁ!」ってのが伝わってくるの。
個性的で、躍動感があって、ユーモアに溢れてて、お洒落で、魂がこもってる!
そんな画と毎日一緒にいたら、「また、描きたい」って気持ちが湧いてきた。

そもそもが上手くなくて描かなくなってしまった上に、もう十数年も描くことを避けるようにして生きてきたんだから、ブランクは百も承知。
上手くなろうとかじゃなくて、もう一度「絵を描くのってやっぱ楽しいや」って思えるようになりたいってことなんだ。
もちろん、下手な絵よりは上手い絵が描けたほうが楽しさは増すから、楽しみながらできる範囲で練習したりもしようとは思ってるけどね。
「上手いとか下手とかじゃなくて、描くことが好きなら、描き続ければよかったんだ…」
今になってそんな風に気付けたから(大人になったかな!?)、今更とか思わずに、またここから始めたいって思う。

と、いうことで、最近たまに落書きをしてます。

これは、さっき描いたチョッパー☆(もちろん、お手本見ながらだよ^^;)
どちらかと言えば上手く描けた方だ!
このあたりから始めますわ〜〜^^

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山田ズーニーさんのワークショップ『想いを伝えるチカラ』

月曜日にちらりと書いた内容の続き。

山田ズーニーさんのワークショップに行ってきた。
新宿の紀伊国屋本店をぶらぶらしていた時に、店内のポスターで見つけて、なんとなくピンときてそのまま同じく店内のチケットセンターにチケットを買いに行った、というもの。

ズーニーさんは、もともと進研ゼミの小論文指導をしていた人で、38歳の時に退職・独立し、現在は
フリーランスの文章表現・コミュニケーションインストラクター
今回のような一般向けワークショップとか講演、大学での講義、企業研修、そして執筆などの活動をしている人。

私がズーニーさんを知ったのは、ほぼ日(ほぼ日刊イトイ新聞)のコンテンツ・「
おとなの小論文教室。でだった。
だけど、それを読んでファンになったとか、とても興味を持っていたというわけではなくて、ただなんとなく「引っかかって」いた人だった。

その「おとなの小論文教室。」を、私は実はちゃんと本腰入れて読んだことがなくて、それは何でかというと、初めて読んだ時、もしくはたまにちらっと覗き見るような感じでつまみ食いならぬつまみ読みをした時に、なんだか「う〜〜〜ん」という気持ちになったからだった。

今考えると、それはたぶんズーニーさんが、「書くこと」、そして「生きること」にあまりにも真剣に挑んでいるそのことが、ちょこっと読んだだけでも私に伝わってきてしまったからだと思う。
とにかく言葉が「重い」気がしたのだ。それは、決して悪い意味じゃなく、私自身も日頃そういう「重め」の言葉を書き綴っているからこそ、なんとなーく「この人の言葉と関わるには、勇気が要る」「きちんと触れるとなったら、エネルギーが必要だ」そんな風に感じたので、めんどくさくて避けてたように思う。

でもそれは、翻って言えば、同じ匂いを感じたということでもある。僭越だけど、言葉や文章表現に対しての真剣さ、切実さ、切羽詰った感じが、自分ととても近い人のような気がしたということだ。だから、「この人の文章は、そのうち、何らかの形で読むことになるに違いない」という感覚はいつもどこかにあった。
だからこそ、ポスターを見た時に「あ、来たかも」と反応できたとも言える。

 *** *** ***

ワークショップは、入場時にもらう資料で座席が指定され、グループ分け、ペア分けがされるというものだった。
最初の約40分間は、ズーニーさんの講演。
想いを伝えるための、7つの要件について、ケーススタディを交えながらのお話。
それから、「考える方法」も教わった。
後半のワークでは、ペアになって、お互いに30分ずつのインタビューをし合った。
質問は、ズーニーさんが用意したもので全20問。
前半に質問する人がA,後半に質問する人がB、と2種類のインタビューシートを使った。
その内容をもとに、自分が今本当に伝えたいことを「自己紹介」(といっても、一般的な自己紹介とは少々趣向が異なったが)としてまとめ、グループで発表し合い(その場で話す)、最後に、ランダムに選ばれた参加者が、今一度、今度はステージの上で自分の「自己紹介」を発表し合う、というような流れだった。

 *** *** ***

・講演部分の最初に、ズーニーさんは「
言葉で伝えることは苦しい、特に書くことは…」と言っていた。文章表現を専門にし、人にその方法を教えることをライフワークにしているズーニーさんほどの人でもそうなんだなぁ…と知って、少し心が軽くなる。
それから、「
文章を書くということは、誰とも共有できない、本当に孤独な作業」だという話にも。独立してからの5年間、ひたすら自宅で文章を書き続けていた時のあるエピソードを聞いて、私はこれが聞けただけでも、このワークショップに来た甲斐があったと思った。
それは、今の自分の状況に対する具体的なアドバイスでもあり、「こんなんじゃ駄目なんじゃないか!?」と思いそうになっていた自分に対して「それで、いいんだよ」と言ってもらえたような話だったから。

・心にグッと迫ってくる言葉というのは、上手い下手じゃない。テクニックや構成力ではないなら、何なのか。それは「
表現とその人の一致」だとズーニーさんは言う。想いと言葉がピタッと一致している時、その言葉は人の心を動かすのだと。
これは、自分自身の経験からも「わかる…!」と感じたし(自分が書いたもののうち、自分の「本当のこと」が言えたものは、手応えが違うし、読んでくれた人の反応も違う)、ワークショップ後半の、ランダムに選ばれた参加者が一人ずつステージに上がってみんなの前で「自己紹介」をした時にも、じわじわと感じた。

・表現というのは、氷山の一角のようなもので、その下には、必ず表に見えない部分があるそうだ。その深層にアクセスして、自分でもよくわかっていないような「自分の本当の想い」を見つけてくること、自分にうそのない文章(それは、決して綺麗な、正しい文章でなくてもいい)を書くことが、想いを伝えるためにはとても重要。
そりゃそうだ!と思うけど、なかなか自分でも自分の本当の気持ちに気付けていないという人は本当に多いらしい。うーん。

・正解が決まっているテストで評価する学校教育で育ってきた私たちはすぐに「答え」を出すように訓練されてしまっているとのこと。だけど、大事なのは「問い」。しかも、大きすぎる「問い」には、途方に暮れて考えることを放棄してしまう。だから、大きな「問い」を小さな「問い」に分けていってみるのが大切なんだそうだ。
丁寧に、それらの「問い」に対する「答え」を深層に探しにいく。そして、より深いところに行くためには、自分を裁かないことが必要。「いい」か「わるい」か、ではなく、自分の言い分が尽きるまで、とにかく聞いてあげる(このへんは『モモ』が話を聞くところと通じるものがあると感じた)。「いい」か「わるい」か言ってしまった時点で、そこより深く行けなくなってしまうから。
私は、この「裁かない」というところ、とても難しくて、しかし一番挑戦したいところでもあると思った。すぐに「答え」を出す習慣と同じくらい、私たちは物事に対してすぐに「裁く」習慣があるように思う。それは、大多数の人が意識すらしていないくらいに、そうだと思う。私ももちろんその一人で、そのことになんとなく気付き始めてから、意識するようになった。特に文章は、その性質上「いい」か「わるい」かを、言わされざるを得ないような側面があると感じてて…まだ考え中だけど…。
「裁かない」で自分の言い分を聞いていったら、どこまで深いところに行けるんだろう。すごく興味があるし、私はそこまで行かないといけないと思う。

・「考える方法」の話のところで、「過去→現在→未来」という軸を取り入れるという視点を教わった時に、ふと思った。
ピースボーター同士の典型的自己紹介には、いつも「過去・現在・未来」が含まれてるなぁ、って。それって、何気にすごいことかもしれない。
例えば仕事で出会ったり、こういうイベント的な場所で出会っても、人は大抵「現在」の自己紹介しかしない。
だけど、ピーセンや船の上では、現在何者なのかと同時に必ず「で、なんで船に乗ろうと思ったの?」という質問がそこに加わる。この質問には、「過去」と「未来」がくっついていると思う。なぜなら、船に乗るということには、必ず「乗る前」と「乗った後」が存在するから。
船を降りて4年以上経った今でも、ピースボーターとの新たな出会いがあると、やっぱりこんな風にお互いの「乗る前」「乗った後(現在)」を自然と話すことが多い。そして、それを話すことで心が開けると、未来の話も聞きやすい。
船関係の人とだといきなり突っ込んだ話ができる確率が高いのは、価値観の共有みたいのもあるけど、こういうところにもあるのかもしれない、と思い、そういう自己紹介をものすごい数当たり前に繰り返してきたことに、嬉しくなった。

 *** *** ***

生で見た、生でその話を聞いたズーニーさんは、やはり、「書くこと」「生きること」に本当に真摯に向き合っている人、という印象だった。伝えることに、必死そうだった。言葉による理解を得られた時の歓びを、一人でも多くの人に伝えたいんだということが、それこそ「
想いと言葉がピタッと一致してまっすぐに、話されていた。

たくさん悩み、迷い、苦しんで、それでも手を動かして、この仕事を「作ってきた」んだろう…と思った。


まだまだ学ぶことがたくさんありそうだ。

生活をメンテナンスすることは、今を生きること

以前、私は完璧主義者で、いつも完璧を目指していた(すごく疲れた)。

夏目祭子さんは、その著書『ダイエットやめたらヤセちゃった』の中で、ダイエッターたちの、究極の目的は、やせた体の「冷凍保存」だ、と書いていた。
説明すると、理想の体を(その多くが、短期間で、苦労せず)手に入れることを目指し、そしてそれを手に入れさえすれば、そこから先は何の苦労もなく人生を送れる(もしくは送りたい)と思っている、と。つまり、それを維持していく過程が想像できていないということ。
なんとなく、身につまされる文章だった。

システムを設計し、開発し、保守するという仕事に携わってみて、一番自分の学びになったことは何かと聞かれたら、「メンテナンスの重要さを、感覚として身に付けたこと」と言うかもしれない。

人の手によって作りあげたものは、どんなものでも、必ず時間の経過とともに朽ちてゆく。プログラムも例外じゃない。朽ちてゆくというとイメージしにくいかも知れないけど、「現状に合わなくなっていく」ということかな。

社会は変化していて、システムを利用する人間も常に変化している。
だから、常に状況に応じて更新が求められる。

私は家庭の中でメンテナンスの重要性をあまり仕込まれずに(良くも悪くも意識することなく)育って来たのだと、会社に入って初めて気付いた。日々の、ちょっとした調整や、あまり意味のないかのように思える繰り返しが、時間を経てみると、とても重要な、不可欠な作業だったことに気付くということが、たくさんあった。


今、毎日の生活の中で、自分が暮らしていく場所を整える、ということが愉しい。
具体的に言えば、掃除、洗濯、料理、洗い物、ゴミ出しetc.
要は、家事だ。

愉しいと思える日もあるけれど、心底めんどくさいと思う日も、もちろんある。
掃除なんて、一生いたちごっこじゃないか…!!と途方に暮れそうになる日もあるし、これから死ぬまでの間に、自分は一体何食分の料理を作り、その後片付けをすることになるのだろう…とか思うと、気が遠くなりそうになる。せっかく洗って干して気持ちよく取り込んでたたんだ洗濯物を、次の日にはもう一日で汗まみれにしてしまってまた洗濯機に入れてたりすると、もうこの不毛さは何なんだ…!!とバカバカしくもなってくる。

完璧を目指し、「冷凍保存」を望んでいた頃の私だったら、この繰り返しにほとほと嫌気が差してしまったのではないかと思う。どんなに完璧に掃除をしても、料理をしても、洗濯をしても、またすぐに埃は溜まり、お腹は空き、洗濯物は積もる。

だけど、今はそんな繰り返しこそが「生きていく」を実感させてくれているような気がする。
途方になりそうになるのも、気が遠くなりそうになるのも、バカバカしくなってくるのも含めて、こうして「生きていく」んだなぁ、って。お母さんも、そのまたお母さんも、そのまたお母さんも、そうやって生きてきたんだなぁ、って。


変化に対応していくことが、生きていくこと。
そんな気がする。
今日は家事のことを書いたけど、その他の、あらゆることにおいても。

時間を止めたいと、完璧に作り上げることができたものを「冷凍保存」させたいと、そんな意識でいたら、「今、生きること」は、どこにもなくなってしまう。
めんどくさいめんどくさいと思いながらも、日々調整を繰り返して、変わっていく自分と付き合い、自分の身の回りをメンテナンスしていくから、コツコツと積み上がっていくものがある。

それこそが、“unique”な(つまり、宇宙の歴史上唯一の)、自分だけの歴史なんだ。

書くか、蹴るか。

キッチンの掃除をした。
部屋に散らかる紙類を、ひとつひとつ拾い上げて、するべき対応をした。

本当にやる気の出ない時は、どんなに「やらなきゃ」「やろう」と思っても体が動かないのに、今日みたいな日は、一度動き始めてしまうと、もうそこからは何かをしてないとソワソワしてしまうくらいに一日中動き回る。
不思議だ。

しかし。
今日一日中、掃除や片付けが捗ったのは、書くことからの逃避という説もありまして…。

…。

まだ今日は終わってないので、書こうと思えば書けるのに…。

ボール蹴りに行ってきます。
あは。

想いを伝えるチカラ ワークショップ

とても良いエネルギーの使い方をした
もう眠いので、詳しくはまた明日にします
メモ程度に

山田ズーニーさん ワークショップ
@紀伊国屋ホール

何か特別なストーリーに力があるわけではなくて、
本当のことを、
一人ひとりの人間にとって、それぞれの「本当」を
ちゃんと本人が見つけ、表現することができたら、
全ての個人は力を持つ。
そう感じた。

「生きていくために働かなきゃいけない」というときの、
生きることと働くことが別のところにあるような感じ、
その感じを、私はこの世界から減らしたいんだろう。
30分かけて私にインタビューをしてくれたワークのペアが、
私の想いをぎゅっと要約するならばそれは
「働くことって、もっと楽しくてもいいんじゃないか」ということかな、と
言ってくれた。
そう、そうなんだ。

私が「書く」ことを知って得た歓びを、
もっと誰かに「教える」のも、いいかもしれない。

今日習った「考える方法」を使って、
自分の根本思想の湖に潜っていく時間を持ちたい。

ミツバチの羽音 ぶんぶん

映画を観てる間に夕立が降った?
街が涼しくなってた。

『ミツバチの羽音と地球の回転』
観てきました。

鎌仲監督と、ゲスト4人のトークセッションも。
(ゲスト:中村隆市さん、Yaeさん、藤村靖之さん、祝島の漁師・岡本さん)

祝島のこと、もっといろんな人に知ってもらいたいと思った。

それは、沈痛な感じでなく(もちろん、深刻な一面はあるけども)、
私たちの知らないところで、こんなすごいこと起きてるんだよ!
こんなに頑張ってる人いるんだよ!
という、知らせたさの方に近いと思った。

Q. 私には何ができる?

A. 文章が書ける。

そういうこと。


友達に。
まずは、近くにいる人に。
伝えようと思った。

そうじゃないと、鎌仲さんがせっかくタイトルに
ミツバチの羽音と地球の回転』とつけた甲斐がないじゃんね。

ぶんぶん ぶんぶん

個人の力が、
世界をより良く変えていく時代になってゆきますように。

ヒキコモリロリン

ふだんは新聞をほとんど読まないけど、
今日ふらりと入ったおむすび屋さんのカウンターで、
隣の席に新聞が置いてあったので、一面だけ読んだ。

「ひきこもり」70万人、予備軍155万人
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100724-00000081-yom-soci

トップ記事だ。

「普段は家にいるが、自分の趣味に関する用事の時だけ外出する」
「普段は家にいるが、近所のコンビニなどには出かける」
「自室からは出るが、家からは出ない」
「自室からほとんど出ない」のいずれかの状態が6か月以上続いている人をひきこもり群と定義しているとのことなので、うちの姉はここでいう「ひきこもり」に該当する。

この人数に対する反応って人それぞれなんだろうけど、私の感想は「こんだけたくさん(うちの姉以外にも)いるんだったら、とりあえず救われる気がする」。「焦ってどうにかしようとしなくてもいいって、思ってもいい気がする。いや、それじゃ駄目なのか?」。「こんな世の中だもん、忍耐力の是非は置いとくとして、引きこもるという行動で訴えに出るのは、ある程度共感できる…」。「ひきこもってる人の実態と、社会の捉え方が、あんまり噛み合ってない気がする(うちの姉のひきこもり歴が長いからそう感じるのか?)」。「もうどうしたらいいかわからんし、今の自分にできることがあるとも思えん」→思考終了。

ただ、ぞぞぞっと思ってしまってから振り払うのは、
ひきこもりの多くが、
親が死んだら、自分も死ぬしかないと本気で思ってるんじゃないかなっていうこと。
参考(あくまで参考)
もちろん、働かざるをえない状況になったら、
「生きていくために…働くしかない」と思って働く人もいるとは思うけど。
それは、ほんの1mmでも「嫌だけど…何とかなるだろう」と思える人の場合だよ?

もう考えたくない。
思考終了。



ヒキコモリロリン / RADWIMPS @Youtube

大暑

大暑です。

いやぁ、本当に毎日暑い!!

東京に越してきて初めて過ごす夏ですが、夜になっても風が涼しくならないのにはびっくりした。ここって、毎年こうなの?
もんわりもわもわ。

3年間のオフィスワークで、夏の日中のクーラーつけてないとこってこんなに暑いんだった…ってことを忘れていたかも。

昨日の夜、水分摂っても摂っても喉が潤わなかったときはどうしようかと思いましたよ。

暑くて眠れないので、しかたなくクーラーをつける夜もあるけど(できればつけない派)、何か用事があってちょっとサッシを開けたりすると、ただでさえ暑い空気が、エアコンの室外機からのむっっぅわぁ〜〜〜とした空気とまざってこっちにやってきてて、「エジプトか!!」とつっこみたくなります。エジプト行ったことないけど(今読んでる小説の舞台がエジプトなのだ)。

東京の人口密度の中でこんな
むっっぅわぁ〜〜〜の出し合いしてたら、そりゃヒートアイランドにもなりますわ。実感だね。
あとは、昼間に上がった温度が下がりにくいんだろうなーこの街は、たぶん。そんな気がする。あまりにもすき間がないもの。

まーでも、もっとずっと暑いところで、クーラーなんかそもそも生活圏に存在しないよー、ってな人たちが世界にはたくさんいて、適応や人種的な違いはあるだろうけど、でも同じ人間が、さらに過酷な状況で生きてると思うと、これくらいで死ぬわけでもあるまいし、と思える。
あ、もちろん水分はちゃんと摂らないとだけどね。摂らんと死ぬよー。

この暑さだけでももう都市部が嫌になってきてしまった…。
森に…森に行きたいよぅ。

トトローーーー!!

半農半X ミツバチの羽音 未来を考える

今週の月曜日、20時くらいに実家を出るときにやっていたTV番組がちらりと目に入った。農家の人と、学者だか評論家だかの偉そうな人が議論を交わしていた。

農家の人は、自分の子どもにはこの仕事を継がせる気は全くないし、むしろこんな仕事絶対に継がせたくない、と言っていた。
それに対して、そのスーツを着たなんとなく偉そうな、テレビでコメントすることでお金を稼いでそうな人は、そうは言っても、日本の食糧自給率を上げないと大変なことになる云々。
農家のおじさんは、日本の食糧自給率が0%になったっていいじゃないですか、と返していた。

「そんなこと言うなら、自分で作ってみてくださいよ!作ってから言ってください!!」
スーツの人は、何も返せなくなってた。

その農家のおじさんが、何をもって自分の仕事に意味を見出せなくなったのか、どんだけ大変な毎日を送っているのか、そこまではわからなかった。
けど、日本の現代農業を考えるときに、私の頭には「大量の農薬で健康を害する」「どんな科学物質が入っているかわからないような化学肥料への不安」「使いたくはなくても使わざるを得ない除草剤(要は、枯葉剤)」「形のきれいな野菜じゃないと売れない」「自分の作った野菜を自分の家では食べない農家」「消費者との直接の繋がりは薄く、感謝される実感が少ない」等のことが、ぱっと思い浮かぶ。
その、ぱっと思い浮かんだ要素だけでも、おじさんの肩を持ちたくなった。数分間TVの画面を見ただけなのに。

 *** *** ***

『半農半X』(はんのうはんエックス)というライフスタイルがある。
自分と自分の家族が食べていける分くらいの食料を自分たちで作り、
現金収入もある程度は必要だから、その分は自分の好きな仕事や得意とすること、
人の役に立てる職を得て、働く。
そういう生き方。
All Aboutの記事

最近考え始めている自分の将来像は、これかなと思う。

オフィスワークをした経験から、日々、体を動かして働きたいと思うようになったし(ただし、あまりにもガッツリ肉体労働過ぎるのは無理があるし、続かなかったら意味がないので、そういう意味では、自分たちの食べる分だけをつくる小さな農は、一生続けていくことができる気持ちのいい肉体労働になりうると思う)。
それから、
植物と触れ合って生きていきたいと、なんとなく思うから。マイナスイオンとか、電磁波の影響を和らげるとか、そういう科学的・論理的理由もあるけど、それ以上に、もっと感覚的な「そばにいたいから」みたいな理由が大きい。緑のある生活は、やっぱり気持ちがいい。
もちろん、安心して食べられるものを、安価で手に入れたいということもあるし、あまりお金を介さずに生活していける術を身に付けたいということもある。
自分が食べるものを自分で作った!という健全な達成感が味わいたいというのもあるかな。
あと、毎日「仕事」に8時間も9時間も時間をとられたくないってこと。

そして、なんだかんだ言っても、やっぱり「
最後には、食べ物を作っている人が一番強い」。これは、農家の生まれで、仕事を退職した現在、自分でも家庭菜園をやっているうちの父が、繰り返し私たち家族に言ってきたことだ。

考えたくないし、想像するのが難しいけど、でも、この日本という国がなくなったりとか(手元のお金の価値はどうなる!?)、経済が破綻してしまったりとか(そのとき、買い物ってできるのか!?流通はどうなる!?)、あるいは世界的な戦争に巻き込まれたりしてしまったとき(領地の奪い合いは現実味がなくとも、石油や水の奪い合いは想像に難くない。いや、むしろもう始まっているのか)、世の中が混乱に陥り、情報も錯綜して、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまうんじゃないかと思うけど、それでも、生きていくためには食べ物が必要だ。それも、10日後に届きます、とかでなく、今日のこの日に必要だし、明日からも毎日必要だ。それは、いのちにとって一番切実なこと。

そんなことを考えると、今のところ私が辿り着くのは『半農半X』なんだよね。

さらに思うのは、生活の主体となるものが2つある、というところが意外と重要な気がする。
これはまだ自分の中でもまとまってないんだけど、人間の精神状態って、ずっと同じことをするのには向いていないと思っていて、振り子のように、揺れているような気がするのね。
こないだも、このブログに「家にいると外に出たくなるし、外に出ると家に帰りたくなる」と書いた。「仕事をし続けていると辞めたく(もしくは休みたく)なるけど、しばらく休んだら働きたくなる」を経験している人も多いと思う。

大葉ナナコさんという有名なバースコーディネーターの人(5人の母!)も、自らの育児&仕事経験を「育児のストレスを仕事で解消し、仕事のストレスを育児で解消していたような感じ」と本に書いていて、これは目からウロコだった!実際にはそんなに単純な話ではなくて、大変なこともたくさんあったに決まっているだろうけど、それでも、なんか納得できた。

振り子を自然に振れさせる。
自分の中にいろんな種類の振り子があって、時間をかけて大きく振れた方がいいものもあれば、できるだけ小刻みに振らせた方がいいものもある。振れないように努力する必要があるものもある…。そんな感じなんじゃないだろうか、と最近考えてる。

 *** *** ***

マンモTV インタビュー#271
鎌仲 ひとみさん(映像監督)

『自分が人生のチェンジメーカーになる』


たまに見る、高校生のためのメディア・「マンモTV」。
インタビューが好きで、おすすめ。
バックナンバーを遡って、全部読みたいくらい。

今週のインタビュイーは、『六ヶ所村ラプソディー』でおなじみ(の人には、おなじみ)の鎌仲ひとみ監督だった。

今新作が公開中なのだそうだ。
タイトルは、『ミツバチの羽音と地球の回転』。
フィシャルサイトはこちら

再生可能な自然エネルギーによって持続可能社会をつくろうとしているスウェーデンの試みと、山口県祝島(いわいじま)で原子力発電所建設に反対している住民の姿を撮ったものだそう。

インタビューを読んで、さっそく7月25日(日)の高円寺での上映会の予約をした!
見たい!(一緒に行きたい人いたら、行こう!夜の回です)
最近自分が考えていることと、すごくつながっているテーマだ。
しかも、祝島の反対運動には、友達が参加していたことがあるのだ。
ちょっとでも、勉強しないと恥ずかしいからね!

スウェーデンは、国民投票で脱原発を決め、2020年までに(!)石油に依存しない社会をつくることを目指しているんだって。知らなかった。

いまのように石油を使って飛行機を飛ばすようなことは、少なくとも30年後には不可能になっているでしょう。
という言葉に、ドキッとした。
「そ〜んなこと、あるわけないし」と思うような世界の変化を、想像力を使って思い描いていかないといけないのかもしれない。

とにかく、何か動きたい。
無駄に終わっても、失敗しても。進んでみないとわからないこともたくさんある。
何かそっちの方向に向かってアクションを起こさないと、あとで起こさなかった自分に嫌になりそうな気がする。
だから、とりあえずは映画を見に行ってこようと思った。

 *** *** ***

たぶん、高度成長の時も、バブルの時も、
若者たちはこれほどまでに未来のことについてウンウン考えなくても、大変なこともあるけどそれなりに充実した毎日を過ごすことができてたんじゃないかな。

私たちは今、考えざるを得なくなっているし、
私の場合は、考えないように考えないようにする方のが、鬱になってしまいそうだ。目を逸らしたところで、そのうち対峙せざるを得ないのはわかりきっているから(目を逸らしているように見える同世代の若者たちも多いけど、みんなどっかではわかってる気もする)。

しかも、自分たちで選択してそうなっているというよりは、やっと大人になってみて気付いたら社会がそういう風になっていた、みたいなところが実感だと思う。
年長者に責任を全部押し付けようなんて気はないし、そんなことしたところで年長者がちゃんと責任をとってくれるとは皆目思えない。そんなこと、みんな気付いてる。
だから、自分たちがどうにかして社会を変えていかなきゃいけないってことはわかってる、わかってるけど、この状況じゃそんなやる気出るわけないじゃん…仕事だって忙しいし…育児だっていっぱいいっぱいなのに…仕事に就くことすらままならないのに…私たち若者の間には、いつもそんな空気を感じる。
そして、それはそれでもっともだ、とも思ったりするから…変えていかなきゃいけないことは、もっと手前の方からたくさんあるのかも。


結論は出せないけど、とにもかくにも動いたり、触れたり、考えたり、伝えたりして、模索していく中からしかアイデアは出てこない気がするから、そうしていこう。

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