Nachico's logbook

쓰고 싶을 때에, 쓰고 싶은 말으로, 쓰고 싶은 것을, 쓰고 싶은 만큼.

2010年07月

多くの人が「大変だ」「しんどい」と思うようなことを
でもそれが好きだからついついやってしまう、辛いと思わない、
もしくは、しんどいには違いないけど、やっぱり辞められない、諦めない
そういうのを「才能」というんだ

と、言ったのは誰だったか

自分にとっては好きでやっていることを
人から「すごいねー」と言われると、やっぱり嬉しい
それはもちろん、たまたまその言ってくれた人にとってすごかっただけかもしれないけど
もしかしたら本当に「一般的に」言ってもすごいことだったりするのかもしれない
そこを見誤って調子に乗ったりしなければ
「すごいねー」と言われることを増やしていくとか、
「すごいねー」と言われ続けるための行動をしていくことで、
何かもっとすごいことができる自分になっていく可能性は増していくんじゃないかな


世の中の「すごい」人たちって、変人が多い気がする

多くの人が「大変だ」「しんどい」と思うようなことを
でもそれが好きだからついついやってしまう、辞められない、諦めないってのは、
言葉にすればカッコいいけど、実際にやってる人がいたら、
近くで感じるその雰囲気って「変」なのかもしれない

あ、これは、テレビとかでだけ見たり、その人の本だけ読んでても
わからないことの類ね

「すごいね、よくそこまでできるよね」ってレベルではまだまだ「才能」ではなくて
「おかしいよ!バカじゃないの!そこまでして何がしたいのさ!」くらいまでいかないと
いわゆる「才能」のレベルには到達しないんじゃないかと

あ、これは、今思いつきで書いてるんだけどね

だから、何か「すごい」ことをする人になりたいと思ったら、
まずは変人になることを恐れちゃいけない、
変人として見られることを何とも思わないくらいにならないといけない、
そんな気がする。
(変人にならずにすごいことする人もいるのだろうが)

今読んでる本に、
「個」にならなければ、魂の問題に触れ続けることはできない
っていうようなことが書いてあるんだけど、
それとも、通じるような気がした。

日本では、出る杭は打たれるし、
集団から外れるものは、疎ましがられる
何にも所属していない人に対して、厳しい社会だ

だけど、そういう状況、出る杭であり、集団から外れ自ら「個」になり、
何にも所属しないことを選び取るような人というのは、
やっぱり何か信念があって、
多くの人が「大変だ」「しんどい」と思うようなことを
でもそれが好きだからついついやってしまう、
変人として見られることを何とも思わないくらい、
その、自分が好きなことに夢中になれる、だから
辞められない、諦めない、
そういう人が多いと思う

小学生の頃は、漫画家になりたかった。

『幽々白書』が大大大好きで、『アニメディア』(アニメ雑誌の名前。今もまだあるのか?)にイラストを投稿したりもしてた。今でも、Gペンとかスクリーントーンとかカラス口とか聞くとぴくっと反応します(今カラス口を使っている人はなかなかいないと思うが)。

でも、自分が描きたいと思ってるイメージと、実際に描けるもののあまりのギャップに、「自分は絵が下手なんだ…」とコンプレックスを抱いて、いつの間にかだんだんと描かなくなってしまった。
絵を描かなきゃいけないような機会があると「いや、私、絵心ないんで…」なんて言って、できるだけ描かないようにして大人になってきた。その間に文章が書けるようにもなったし、別に絵は描けなくてもいいや、って思ってた。

だけど。

今年の4月に改めて『ONE PIECE』にハマってから!
私の中の「描きたい気持ち」にまた火が点き始めた。

『ONE PIECE』の作者、“尾田っち”こと尾田栄一郎氏の絵(漫画だから、「画」かな)を見てると、「私もこんな風に楽しく描きたい!」って気持ちにさせられるんだ。
もう本当に、見てるだけで「この人は、漫画描くのが心の底から好きなんだなぁ!」ってのが伝わってくるの。
個性的で、躍動感があって、ユーモアに溢れてて、お洒落で、魂がこもってる!
そんな画と毎日一緒にいたら、「また、描きたい」って気持ちが湧いてきた。

そもそもが上手くなくて描かなくなってしまった上に、もう十数年も描くことを避けるようにして生きてきたんだから、ブランクは百も承知。
上手くなろうとかじゃなくて、もう一度「絵を描くのってやっぱ楽しいや」って思えるようになりたいってことなんだ。
もちろん、下手な絵よりは上手い絵が描けたほうが楽しさは増すから、楽しみながらできる範囲で練習したりもしようとは思ってるけどね。
「上手いとか下手とかじゃなくて、描くことが好きなら、描き続ければよかったんだ…」
今になってそんな風に気付けたから(大人になったかな!?)、今更とか思わずに、またここから始めたいって思う。

と、いうことで、最近たまに落書きをしてます。

これは、さっき描いたチョッパー☆(もちろん、お手本見ながらだよ^^;)
どちらかと言えば上手く描けた方だ!
このあたりから始めますわ〜〜^^

PAP_0146

月曜日にちらりと書いた内容の続き。

山田ズーニーさんのワークショップに行ってきた。
新宿の紀伊国屋本店をぶらぶらしていた時に、店内のポスターで見つけて、なんとなくピンときてそのまま同じく店内のチケットセンターにチケットを買いに行った、というもの。

ズーニーさんは、もともと進研ゼミの小論文指導をしていた人で、38歳の時に退職・独立し、現在は
フリーランスの文章表現・コミュニケーションインストラクター
今回のような一般向けワークショップとか講演、大学での講義、企業研修、そして執筆などの活動をしている人。

私がズーニーさんを知ったのは、ほぼ日(ほぼ日刊イトイ新聞)のコンテンツ・「
おとなの小論文教室。でだった。
だけど、それを読んでファンになったとか、とても興味を持っていたというわけではなくて、ただなんとなく「引っかかって」いた人だった。

その「おとなの小論文教室。」を、私は実はちゃんと本腰入れて読んだことがなくて、それは何でかというと、初めて読んだ時、もしくはたまにちらっと覗き見るような感じでつまみ食いならぬつまみ読みをした時に、なんだか「う〜〜〜ん」という気持ちになったからだった。

今考えると、それはたぶんズーニーさんが、「書くこと」、そして「生きること」にあまりにも真剣に挑んでいるそのことが、ちょこっと読んだだけでも私に伝わってきてしまったからだと思う。
とにかく言葉が「重い」気がしたのだ。それは、決して悪い意味じゃなく、私自身も日頃そういう「重め」の言葉を書き綴っているからこそ、なんとなーく「この人の言葉と関わるには、勇気が要る」「きちんと触れるとなったら、エネルギーが必要だ」そんな風に感じたので、めんどくさくて避けてたように思う。

でもそれは、翻って言えば、同じ匂いを感じたということでもある。僭越だけど、言葉や文章表現に対しての真剣さ、切実さ、切羽詰った感じが、自分ととても近い人のような気がしたということだ。だから、「この人の文章は、そのうち、何らかの形で読むことになるに違いない」という感覚はいつもどこかにあった。
だからこそ、ポスターを見た時に「あ、来たかも」と反応できたとも言える。

 *** *** ***

ワークショップは、入場時にもらう資料で座席が指定され、グループ分け、ペア分けがされるというものだった。
最初の約40分間は、ズーニーさんの講演。
想いを伝えるための、7つの要件について、ケーススタディを交えながらのお話。
それから、「考える方法」も教わった。
後半のワークでは、ペアになって、お互いに30分ずつのインタビューをし合った。
質問は、ズーニーさんが用意したもので全20問。
前半に質問する人がA,後半に質問する人がB、と2種類のインタビューシートを使った。
その内容をもとに、自分が今本当に伝えたいことを「自己紹介」(といっても、一般的な自己紹介とは少々趣向が異なったが)としてまとめ、グループで発表し合い(その場で話す)、最後に、ランダムに選ばれた参加者が、今一度、今度はステージの上で自分の「自己紹介」を発表し合う、というような流れだった。

 *** *** ***

・講演部分の最初に、ズーニーさんは「
言葉で伝えることは苦しい、特に書くことは…」と言っていた。文章表現を専門にし、人にその方法を教えることをライフワークにしているズーニーさんほどの人でもそうなんだなぁ…と知って、少し心が軽くなる。
それから、「
文章を書くということは、誰とも共有できない、本当に孤独な作業」だという話にも。独立してからの5年間、ひたすら自宅で文章を書き続けていた時のあるエピソードを聞いて、私はこれが聞けただけでも、このワークショップに来た甲斐があったと思った。
それは、今の自分の状況に対する具体的なアドバイスでもあり、「こんなんじゃ駄目なんじゃないか!?」と思いそうになっていた自分に対して「それで、いいんだよ」と言ってもらえたような話だったから。

・心にグッと迫ってくる言葉というのは、上手い下手じゃない。テクニックや構成力ではないなら、何なのか。それは「
表現とその人の一致」だとズーニーさんは言う。想いと言葉がピタッと一致している時、その言葉は人の心を動かすのだと。
これは、自分自身の経験からも「わかる…!」と感じたし(自分が書いたもののうち、自分の「本当のこと」が言えたものは、手応えが違うし、読んでくれた人の反応も違う)、ワークショップ後半の、ランダムに選ばれた参加者が一人ずつステージに上がってみんなの前で「自己紹介」をした時にも、じわじわと感じた。

・表現というのは、氷山の一角のようなもので、その下には、必ず表に見えない部分があるそうだ。その深層にアクセスして、自分でもよくわかっていないような「自分の本当の想い」を見つけてくること、自分にうそのない文章(それは、決して綺麗な、正しい文章でなくてもいい)を書くことが、想いを伝えるためにはとても重要。
そりゃそうだ!と思うけど、なかなか自分でも自分の本当の気持ちに気付けていないという人は本当に多いらしい。うーん。

・正解が決まっているテストで評価する学校教育で育ってきた私たちはすぐに「答え」を出すように訓練されてしまっているとのこと。だけど、大事なのは「問い」。しかも、大きすぎる「問い」には、途方に暮れて考えることを放棄してしまう。だから、大きな「問い」を小さな「問い」に分けていってみるのが大切なんだそうだ。
丁寧に、それらの「問い」に対する「答え」を深層に探しにいく。そして、より深いところに行くためには、自分を裁かないことが必要。「いい」か「わるい」か、ではなく、自分の言い分が尽きるまで、とにかく聞いてあげる(このへんは『モモ』が話を聞くところと通じるものがあると感じた)。「いい」か「わるい」か言ってしまった時点で、そこより深く行けなくなってしまうから。
私は、この「裁かない」というところ、とても難しくて、しかし一番挑戦したいところでもあると思った。すぐに「答え」を出す習慣と同じくらい、私たちは物事に対してすぐに「裁く」習慣があるように思う。それは、大多数の人が意識すらしていないくらいに、そうだと思う。私ももちろんその一人で、そのことになんとなく気付き始めてから、意識するようになった。特に文章は、その性質上「いい」か「わるい」かを、言わされざるを得ないような側面があると感じてて…まだ考え中だけど…。
「裁かない」で自分の言い分を聞いていったら、どこまで深いところに行けるんだろう。すごく興味があるし、私はそこまで行かないといけないと思う。

・「考える方法」の話のところで、「過去→現在→未来」という軸を取り入れるという視点を教わった時に、ふと思った。
ピースボーター同士の典型的自己紹介には、いつも「過去・現在・未来」が含まれてるなぁ、って。それって、何気にすごいことかもしれない。
例えば仕事で出会ったり、こういうイベント的な場所で出会っても、人は大抵「現在」の自己紹介しかしない。
だけど、ピーセンや船の上では、現在何者なのかと同時に必ず「で、なんで船に乗ろうと思ったの?」という質問がそこに加わる。この質問には、「過去」と「未来」がくっついていると思う。なぜなら、船に乗るということには、必ず「乗る前」と「乗った後」が存在するから。
船を降りて4年以上経った今でも、ピースボーターとの新たな出会いがあると、やっぱりこんな風にお互いの「乗る前」「乗った後(現在)」を自然と話すことが多い。そして、それを話すことで心が開けると、未来の話も聞きやすい。
船関係の人とだといきなり突っ込んだ話ができる確率が高いのは、価値観の共有みたいのもあるけど、こういうところにもあるのかもしれない、と思い、そういう自己紹介をものすごい数当たり前に繰り返してきたことに、嬉しくなった。

 *** *** ***

生で見た、生でその話を聞いたズーニーさんは、やはり、「書くこと」「生きること」に本当に真摯に向き合っている人、という印象だった。伝えることに、必死そうだった。言葉による理解を得られた時の歓びを、一人でも多くの人に伝えたいんだということが、それこそ「
想いと言葉がピタッと一致してまっすぐに、話されていた。

たくさん悩み、迷い、苦しんで、それでも手を動かして、この仕事を「作ってきた」んだろう…と思った。


まだまだ学ぶことがたくさんありそうだ。

以前、私は完璧主義者で、いつも完璧を目指していた(すごく疲れた)。

夏目祭子さんは、その著書『ダイエットやめたらヤセちゃった』の中で、ダイエッターたちの、究極の目的は、やせた体の「冷凍保存」だ、と書いていた。
説明すると、理想の体を(その多くが、短期間で、苦労せず)手に入れることを目指し、そしてそれを手に入れさえすれば、そこから先は何の苦労もなく人生を送れる(もしくは送りたい)と思っている、と。つまり、それを維持していく過程が想像できていないということ。
なんとなく、身につまされる文章だった。

システムを設計し、開発し、保守するという仕事に携わってみて、一番自分の学びになったことは何かと聞かれたら、「メンテナンスの重要さを、感覚として身に付けたこと」と言うかもしれない。

人の手によって作りあげたものは、どんなものでも、必ず時間の経過とともに朽ちてゆく。プログラムも例外じゃない。朽ちてゆくというとイメージしにくいかも知れないけど、「現状に合わなくなっていく」ということかな。

社会は変化していて、システムを利用する人間も常に変化している。
だから、常に状況に応じて更新が求められる。

私は家庭の中でメンテナンスの重要性をあまり仕込まれずに(良くも悪くも意識することなく)育って来たのだと、会社に入って初めて気付いた。日々の、ちょっとした調整や、あまり意味のないかのように思える繰り返しが、時間を経てみると、とても重要な、不可欠な作業だったことに気付くということが、たくさんあった。


今、毎日の生活の中で、自分が暮らしていく場所を整える、ということが愉しい。
具体的に言えば、掃除、洗濯、料理、洗い物、ゴミ出しetc.
要は、家事だ。

愉しいと思える日もあるけれど、心底めんどくさいと思う日も、もちろんある。
掃除なんて、一生いたちごっこじゃないか…!!と途方に暮れそうになる日もあるし、これから死ぬまでの間に、自分は一体何食分の料理を作り、その後片付けをすることになるのだろう…とか思うと、気が遠くなりそうになる。せっかく洗って干して気持ちよく取り込んでたたんだ洗濯物を、次の日にはもう一日で汗まみれにしてしまってまた洗濯機に入れてたりすると、もうこの不毛さは何なんだ…!!とバカバカしくもなってくる。

完璧を目指し、「冷凍保存」を望んでいた頃の私だったら、この繰り返しにほとほと嫌気が差してしまったのではないかと思う。どんなに完璧に掃除をしても、料理をしても、洗濯をしても、またすぐに埃は溜まり、お腹は空き、洗濯物は積もる。

だけど、今はそんな繰り返しこそが「生きていく」を実感させてくれているような気がする。
途方になりそうになるのも、気が遠くなりそうになるのも、バカバカしくなってくるのも含めて、こうして「生きていく」んだなぁ、って。お母さんも、そのまたお母さんも、そのまたお母さんも、そうやって生きてきたんだなぁ、って。


変化に対応していくことが、生きていくこと。
そんな気がする。
今日は家事のことを書いたけど、その他の、あらゆることにおいても。

時間を止めたいと、完璧に作り上げることができたものを「冷凍保存」させたいと、そんな意識でいたら、「今、生きること」は、どこにもなくなってしまう。
めんどくさいめんどくさいと思いながらも、日々調整を繰り返して、変わっていく自分と付き合い、自分の身の回りをメンテナンスしていくから、コツコツと積み上がっていくものがある。

それこそが、“unique”な(つまり、宇宙の歴史上唯一の)、自分だけの歴史なんだ。

キッチンの掃除をした。
部屋に散らかる紙類を、ひとつひとつ拾い上げて、するべき対応をした。

本当にやる気の出ない時は、どんなに「やらなきゃ」「やろう」と思っても体が動かないのに、今日みたいな日は、一度動き始めてしまうと、もうそこからは何かをしてないとソワソワしてしまうくらいに一日中動き回る。
不思議だ。

しかし。
今日一日中、掃除や片付けが捗ったのは、書くことからの逃避という説もありまして…。

…。

まだ今日は終わってないので、書こうと思えば書けるのに…。

ボール蹴りに行ってきます。
あは。

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