2010年07月

10000

今日、このブログの累計訪問者数が10000人を超えました。
(訪問者数カウンターのプラグインを設置してからの人数)

ありがとう。
今までの自分の人生で、のべ人数でも、「一万人」という人数に対して
何か影響を与えられるような働きかけが、自分個人としてできたことが
あっただろうか?と考えると、まず思いつきません。

今年の5月から、毎日更新するようにしたところ、
徐々に、毎日読みに来てくれる人や定期的にチェックしてくれる人が増えていって、
気付いたら毎日の訪問者数が20〜30人という風になってました。
もともとコツコツと増えていた累計人数が、
そこからは着実に増えていくような印象になって(コツコツというのは変わらないけど)、
気付いたら、あっさりと5桁に突入できました。
この、「続けることで、積み重なるもの」の感覚を得られたことは、
自分にとって大切な経験になりました!(現在も進行中!)

「一万人」の感触も、言葉にはしにくいけれど、今、手の中にあるような感じです。
こっから敷衍させて、10万人や100万人をイメージしながら目指すのもありだし、
この感覚を忘れずに、2万人3万人を着実に
さらにコツコツと積み重ねていくのも大事。
矛盾することじゃないと思うので、両方見据えていきたいところです。

とりあえず、別に10000人が目標だったわけでもないので、
ということは結果的なことでしかないので、
また同じように毎日地味に書き続けていく感じですねー。


話は変わって。


生まれてから10000日目というのは、
27歳4ヶ月と15日だそうです(生まれた月や閏年の入り具合によって若干前後)。

生まれてから100日は、3ヶ月と10日前後。
生まれてから1000日は、
2歳8ヶ月と27日前後

20000日目は54歳の時、30000日目は82歳の時なので、
人生で、この「日齢」の桁が上がる最後の機会が10000日ということですね。

検索すると自動的に計算してくれるサイトもいろいろあるので、
興味ある人は探してみてください。


1983年7月2日生まれの私は、
2010年11月17日が、その日だそうです。

どうやってお祝いしようかな〜♪

しーさー

ご近所に、沖縄のシーサーを置いている家があります。
玄関前の段差になっているところ、右サイドと左サイドに分けて、3組。

シーサーは、口を開けているのと(幸せを呼び込む)口を閉じているのと(入ってきた幸せをしっかり掴まえておく)、2匹で一組なわけですが、それが3組、左右対称になるように、内側から外側に向けてだんだん大きくなるように、並べられていました。

その家の人は、毎日そのシーサーたちの間を通って出入りするような感じで。
3組は、色もデザインもバラバラで、本格的(?)な陶器製の渋い色のやつとか、ポップなデザインの手作りっぽいやつとか。

それを、その家の前を通るたびに見ていて、私もそんなふうに玄関にシーサーを置きたくなりまして。
(私の場合、置くとしたら玄関の中だけどさ)
沖縄に行ったときに、気に入った!と思えるようなシーサーを探してみました。

だけど、あまりピンとくるようなものが見つからず、また、経済的な理由もあり、「モノを増やさなくてもいいんじゃないか?」という考えもあり、結局買わずに帰ってきました。

そしたらね、帰って来たその日にね、その家の前を通ったらね…

なぜか、シーサーが4組に増えていた。

一番小さかった組の内側に、さらに小さい、伏せたような格好をした新しいシーサーの組が加わっていたんです。

それを見て、なんだかニヤニヤしてしまい、「あ、私は買わなくてよかったのかもな」と思いました。



おわり

必要なタイミングでやってくる

ちょっとびっくりした。

ノリは今どこで何をしてるんだろう?


『八月の博物館』という小説は、
大学の時のクリスチャンサークルの友達・ノリに薦めてもらった。

彼と話していると知的好奇心がいろいろと満たされたし、
お互いに読書が趣味だったので、よくしゃべった。

薦められたときに簡単にストーリーも聞いていて、
それこそすぐにでも読もうかと思ってたのに、
なんだかんだで読まないまま(そして、読もう読もうと思ったまま)
時間が過ぎてた。何年間も。

その本を、やっと手にとって読み始めたこの夏。
物語の世界に入っていくと、
そこにはなんと小説の意味を考え続けている作家が主人公として登場した。

実は私、最近「小説を書いているときの人間の心理」にすごく興味があって、
小説家の書いた小説でない本(エッセイとか、小説入門的な本)を
意識的に読むようにしていたのだ。

この小説は、主人公が3人いて、
私がノリから聞いていたストーリーには、その小説家のことは触れていなかった。
だから、この本の中に、私が最近読んでいたようなこと、つまりは、
私が知りたいと思っていたこと(小説を書いている人の「気持ち」)が、
物語の一部となって書かれているなんてことは、全く知らなかったのに。

まるで、最近の私の読書テーマを、その本の方が知っていたかのように、
自然に借りてきた本たちの中にするりと混ざっていた。
だから、びっくりした。

まだ読み終えてないけど、
すでに「この本を、今読めてよかった」と心から思える文章に出会ってる。



誰かに薦めてもらった本でも、
そのときには「絶対読もう」と思った本でも、
結局読まずじまいになってしまうことはあるし、
本のタイトルすら忘れてしまうときだってある。

だけど、『八月の博物館』は、ずっと頭にあったんだよなぁ。
何度か、買おうとしたり、借りようとしたりしたことさえあったと思う。
でも、ここまで手に取らずに来た。

結果論だし、一般に簡単に敷衍することはできないけど、
でもやっぱり「必要な本は、必要な時にやってくる」と
改めて思った。

慣れているもの

昨日今日と、小田原に帰って来てる。

一人暮らしを始めてから初めて、実家に「泊まった」。
小田原には何回か帰ってきてるし、実家にも2,3回来てたけど、
泊りがけできたのは初めて。

なんか…「すっごくくつろげる旅館」みたいな感じですねー(笑)。
誰にも気を遣わなくてよくて、
冷蔵庫の中のものとか、テーブルの上のものとか、ごはんとか
だいたい好きに食べていいし。
どこに何があるかわかってるし。
何時に帰ってきてもいい。
日常のいろいろからは離れていて、
やらならくちゃいけないことはほとんどない。


昼間、
御殿場線から、箱根の稜線と田んぼを見渡したら、
それだけでホッとした。
富士山の雪がほとんど解けていて、
あぁ夏になったんだなぁと思う。



電車で小田原駅周辺にも出たけど、
駅だとか、街だとかを歩いていても、
「久しぶり」感があまりないのは、不思議だった。
もっと「おー、久しぶりだな」と思うかと予想して、
その軽い違和感を味わうのを期待してたんだけど、
全然。
昨日もここでこうして歩いていたかのようだった。

この街で過ごした時間、積み重ねたものを考えれば
さもありなん、
てとこか。


終電1本前に乗って帰って来た最寄り駅からの、徒歩の帰り道。
ここは本当に歩き慣れてる道だなぁと思った。
暗い道を一人で歩いてても、ちっとも怖くない。

いったい自分は何回この道を歩いたんだろうかと思う。

特に、会社に勤めてた時期、会社帰りにここを歩きながら
どんだけ頭をぐるぐるさせて悩んだり考えたりしたことか。
そういう、今までにこの道を歩きながら思ったことすべてと
一緒に歩いているような気分になった。

大袈裟に言えば目をつぶっても歩ける道のりで、
まぁそれはホント大袈裟なんだけど、
でも実際、道の感触とか、ここは窪んでるから避けるだとか
横断歩道じゃないけど、ここでこの角度で道を渡るのが一番楽だとか
そういうことを、無意識にできる、道だ、
と思った。


何年も帰ってこなかったら、その何年かぶりに帰って来た時に
どんな感じがするんだろう、ってのも興味はあるけど、
ここは、「ちょくちょく帰って来たいところ」だと今のところ思う。
外から、たまに戻ってくることで、その頻度を保つことで
感じられることを感じてみたい、見えてくるものを見てみたい、
そういう感じだ。

717

今日は友達の結婚パーティーでした
藤沢に住む新郎新婦が選んだ会場はなんと…

鵠沼海岸の海の家…!

参加者はみんな水着やラフな格好で集まり
BBQやビーチバレー、海水浴を楽しみながらお祝いしました

すごく楽しかったー

10時に開場し
18時半頃までの貸し切り!

湘南の海の空気は
まさに夏…!って感じ
江ノ島が目の前!

初めましての出会いや
久しぶりの再会もたくさんあって
とっても素敵な時間になりました


中でも
私が一番嬉しかったのは
ビーチサッカーができたこと!
初ビーチサッカー!!

砂に足をとられながら
眩しい太陽に照らされながら
笑いながら
いっぱい走った

本当に気持ちよくて
楽しくて
可笑しくて
愛しくて
この時間をとっておきたいよー
だけど、とっておけないからこんなに素晴らしいんだ
と思った


私の周りには本当に遊び上手な人が多い
子どもみたいになって、真剣に、バカみたいに遊ぶ

いろんなことが変わってゆくけれど
私もいつまでもそういう大人でありたいと思いました


新郎新婦、今日はありがとう!
お幸せにー(*^_^*)

本日のおきゃくさま

今日は、あっぴーが泊りに来てまーす
はるばる新潟から

今週急に決まったことだったけど
何か用事があって東京に出てきた友達を
気軽に泊めることのできる家にしたいと思ってたので
私としてもうれしい限り

地方から東京に来る予定のある方〜
どうぞお気軽になちこ家をご利用くださいな

ちなみに今日の夕飯は
舞茸とトマトのパスタ
ゴーヤーの酢の物
三年番茶
でした

料理するのは好きなんだけど
一人だと、ついついめんどくさがって
手抜きしがち
だけど
誰かが一緒に食べてくれるとなれば
作るのは楽しい

なので
泊りじゃなくても
ごはんだけ食べに来てくれても嬉しいよ

あっぴーと私は
家族の問題で悩み仲間(?)なので
そんなおしゃべりをしたりしてます

しゃべりながら思った
細かな事情とか思いを人に話すことって
今までほとんどなかったなー
なんとなく
こんなこと人に話しても…(場が重たくなるし)とか
話してもあんまり伝わんないだろうし…とか
思っちゃって
話してこなかったのかな
もっと話してもいいかも、と思った

もずくのパスタ

よしもとばななの小説『なんくるない』に出てくる
もずくのパスタがある。

エッセイ集『人生の旅をゆく』の「もずく」というエッセイにも出てくるし、
『なんくるなく、ない』という旅日記本にもこのパスタについて触れている箇所がある。
もともとは、作者が沖縄に住む友人から大量にもらったもずくを毎日のように
食べていた日々でてきとうに考えたレシピだそう。


「もずくとにんにくとゴーヤーをさっと炒めて、パスタに和えて醤油で味付けをし、パルミジャーノをかけて食べるだけ。でも、妙においしかった。時間がたったらおいしくないので、できたてをうどんみたいにがつがつ食べるのだ。」


そのどれもを読んでいたので、そのうち絶対に自分でも作ってみようと思っていた。
しかも、もずくはもちろんスーパーとかで売ってるちっちゃいもずく酢のパックなんかじゃなくて、沖縄で食べるような、もっさりボリュームがあって味付けしてないやつ!

そんなことが頭にあったので、こないだ沖縄に行ったときに
帰りの那覇空港でもずくを買った。
たぶん収穫(?)されたほぼそのままの状態で、ビニールのパックに入ってるやつ。
500g。
明らかに生ものなのに「常温で保存。開封後冷蔵」なのは、
要は塩漬け状態ってことなんだろう。
こんなに大量
のもずく(って言っても500gなんだけどさ。もずくってちょろっとしか食べないイメージだから、関東の人間にとっては)を持ったのも買ったのもたぶん初めてだったんじゃないかなー。

さすがにパスタにするって言ってもひとりで500gは必要ないから、
半分は実家に持って行った。

そして、昨日と今日のお昼、実際にそのパスタを作って食べた。
(そういえば、パルミジャーノチーズってのも、初めて買ったや)

文章の中でしか知らなかった食べ物が、目の前に現れたーー!!
という感じで、とても嬉しかった。
そして私も、がつがつと食べた。
おいしかった。(なんたって、2日連続で作って食べてるくらいですから)
特にもずくの食感は、
「そうそう、これが食べたかったの!酢じゃない食べ方で!」と思えて、大満足だった。

『なんくるない』でこのパスタが登場するシーン。
すごく好きだ。
つきあいはじめたばかりの恋人が、主人公に教えてくれるパスタ。
彼のお母さんとお姉さんがやっているレストランの一画での会話。


「よく 洗ったもずくとにんにくと、薄切りのゴーヤーを高温の油でがーっと炒めて、パスタにあえるだけ。」
「ちっともおいしそうに聞こえないけど。」
「まあ、食べてみなよ!」
  彼は笑って、オリオンの生ビールを飲んだ。
  私たちはよっぱらっているみたいで、ふたりでいてもひとつの体みたいな感じがした。どこか体の外、遠い星のところで、つながっているのがわかる感じだった。
  久しぶりに味わう恋愛のよさだった。
「ほら、見た目が汚い。」
  そう言いながら、みちるさんが大皿を持ってやってきた。そこにはなんだか黒くてぬるっとしたものがいっぱいからんだパスタがのっていた。トラがさらにそこにパルミジャーノをかけはじめたので、私はびっくりして、
「え〜?チーズを?」
  と言った。
「これがまた妙に合うんだって!」
  トラは笑いながら、私のお皿にそのパスタを取ってくれた。私はどういう味なんだろうと思いながら、一口食べた。
「おいしい!」
  もずくが熱く溶けていて、ゴーヤーの苦味が油っこさを消していて、ほんとうにおいしかったのだ。
「冷めたらまずいから店には不向きなんだけど、おいしいでしょう?」
  トラは嬉しそうに笑った。
「楽しいね、こうやっておいしいと思うのって。」
  私が言うと、トラはうなずいた。
「つまんないことがたくさんたくさんあって、力がなくなるようなこととか、生きててもしかたないと思うようなことがたくさんある、TVを観ても、なにをしててもいつでもたくさん目や耳に入ってくる。だから面白いことをたくさんして、逃げ続けるんだ。逃げ続けるしかできない戦いなんだよ。僕のちっぽけな人生を誰にも渡さないんだ。」
  トラは言った。


粟国島の宿のハンモックの上で
オリオンビールを飲みながらここを読み返してたとき、
このトラの
台詞に、私はページの角を折り曲げたのだった。


また作って食べよう。

変なのー

家にいると外に出たくなるのに
外にいると家に帰りたくなる



家の近くの教会の前を通ったら
「すべてのことについて感謝しなさい」
っていう聖書の言葉がポスターみたいのに書いてあって

愚痴をこぼしながらすべてのことについて感謝して生きていくことって
できると思った
たぶん人生で初めて思った

無数の要素

疲れた。

朝遅めに起きて、美術館に行き、
門に着いてから今日が休館日だったことを知り、
ぷらぷら歩いて、ベンチに座って読書し、
おいしそうなお店を探してごはんを食べ、
図書館に寄って、買い物して、
帰ってきただけなのに。

ぐったり。

「優雅な休日」にカテゴライズされてもいいような
気ままな一日だったのに、この疲労感は何。


でも、そう思うのは(そして、そう思うことが世間的にも不自然ではないと
ある程度の確信を持っているからこそ、ここにこういう書き方をするのは)、
どの程度の肉体的・精神的労働や活動を行えば、どの程度疲労するはずである、
みたいな科学的な因果関係の基準を私たちが共有しているからだよね、きっと。

だけど、思うに、今日の私の疲労感を作り出したのは、
「今日、私がした肉体的・精神的活動」だけではないことは間違いないはずで。

今悩んでること
筋肉中の乳酸量
都会の空気と人々の表情
ここ数週間の過ごし方
昨日食べたもの
天体の動きによる影響
昨夜見た夢
昔からのからだの使い方の癖
送信したメールと受信したメール
今この瞬間からだが欲してるもの
影響を受けている思想
自分が本当にしたいこと
考え方のパターン
今日一日の中で私と一瞬でも関わったお店の人たちや街中の人たち
頭の中でぐるぐると考えていること
目に見えないエネルギーや気の類
この数年間に自分の中に溜まっていたもの
気圧、血圧
今読んでいる本のテーマ

こういった様々な要素が絡まりあって、
今日の、今の、私の心身の状態があるんだろう。
ここに挙げたのもほんの一部で、
全く意識していないもの、その存在に気付いてすらいない要素もきっとあるんだろう。

そう考えると、「科学的」って、なんかちょっと乱暴。
というか、全く細やかでないことがわかる。

何が「原因」でそうなったかなんて、
本当のところは、誰にも言葉にできないんじゃないかな。
時間を巻き戻して、その「原因」と思われる要素以外の条件はそのままに
その「原因」だけを変えて、「結果」が変わるかどうかを確かめてみない限りは。

働くことについて考えている

眠いでーす。
スペインの勝利を見届けてから、
6〜7時間くらい眠ったのに、起きてからもずっと眠かったわ〜。
時間の感覚がおかしくなってます。

それでも、いわゆるサラリーマンだったら、
日中の仕事の心配をせずに未明の試合を楽しむなんてことは
できなかったと思うから(人によってはできるかもだけど、私はね)、
今プータローでよかったなぁと思った。

そして、できることなら、
この先も、こんなふうに時間の融通が利き、
スペシャルなことがある時には、
誰に許可を乞うでもなく、いつもとは違う時間の過ごし方を選択できる、
そういう職業に就きたいと、心から思いました。

 *** *** ***

今日、眠い目をこすりながら出社したサラリーマンがたくさんいたと思う。
そして、眠くて大した仕事できなかった人もいたかもしれない。
事情をわかって、「しょうがねぇなぁ」と笑ってくれる上司がいる人もいれば、
「社会人としてなってない。そんなことは許されることじゃない」とかいう上司や
先輩を持ってしまった人もいるんだろうなぁ。
とか、とか、考えたりした。
自分にとって大切なことが、相手にとっては大切なことではない場合、
自分の、その「大切に思う気持ち」がないものであるかのように扱われてしまうことは多い。

会社員時代に、常に私の心にぐるぐると渦巻いていた思いは
「正しいことが、心にも優しいとは限らない」。

組織で何かをするということは、
個人ではできないような大きなことができるようになるということだけど、
その組織が大きくなればなるほど、
構成員個人の事情が考慮されず、融通が利かなくなるもの。
私も何回も、「組織のために自分の気持ちが犠牲にされた」と
感じることがあって、そのたびに虚しかったし、悲しかった。

また、ただ単に「(暗黙の)ルールだから」と従わされたこともある。
まとも考えれば、何も迷惑をかけていないし、むしろ合理的なんじゃ?ということ
(例えば、仕事がほとんどなくて、毎日暇つぶしのような作業をさせられている
  時期に、まとめて有休を取るとか)でも、
「そういうことはちょっと難しいんだよね…」とか「今までにやった人いないから…」とか
何とかモゴモゴ言われて、立場と性格から反論できずに悔しい思いをしたことも多々。

世の中にはいろんな組織があるだろうから、
もっと風通しもよくて、融通の利く、人間的な会社もあるのかもしれないけど、
そうじゃない、私のいたような会社がまだまだたくさんあるのは確か。

今後、組織に属さない生き方を模索していくとして、
その過程で、生活の糧を得るためにやむをえず組織に属す期間もあるかとは思う。
だけど、できるだけ、「個人の事情・気持ち」を汲んでくれるような、
それほど大きくない組織を選びたいと思ってる。

 *** *** ***

「そんなの甘えだ」と言う人がいるだろうけど、私は言いたい。
言っちゃいけないような空気が世の中にはあるのかもしれないけど、
言ってもいいと思うんだ。

一日7時間も8時間も働きたくない。
一週間に5日も働きたくない。
そんだけ働いて、さらに家事までしてる人だっているんだぜ?
そうやって人生の時間がつぶされていくことが今、どれだけの人を疲弊させているのか。

だいたい、人間は、働かないでもいいように、
技術を進歩させてきたんではなかったのだろうか?
労働に費やす時間を減らして、
大切な人たちと一緒においしいものを食べたり、
美しいものや楽しいことに触れたり、
何もしないでぼーっと心を休ませたり、
利益とかとは関係なく自分の興味のあることを探求したりするために、
工業化とか情報化とかに力を注いできたのでは?
なのに、実際のところは、そういう“進歩”が進めば進むほど、
目指していたような「働かないでもいい人生」からは遠ざかっているように思う
(そういうことをするのにも、お金が要るんだから…と思わされてきたあたりにも
  大きな問題が潜んでいる)。

私は、一週間に3日しか働かなくてよくて、
しかも働く日も一日に3〜4時間しか働かなくても十分に暮らしていけるんだったら、
そういう人生を送りたい。
(もしかして、仕事がむっちゃ楽しくなっちゃったら、それ以上やるかもしれないけど。
  そしたら、それはもう“労働”の範疇からは出た、仕事と遊びの境目がない活動だ)

そして、それは不可能じゃないとも思う。

そのくらいか、それ以下の労働でいいんだったら、
家事も何とか毎日(たまにはサボる日もありつつ)気分よくやっていける気がする。
この、「気分よく家事を続けていけるかどうか」は、人生においてかなり大事なこと
のような気がしていて(衣食住を整えることは、人生の基本だから)、
特に世の中のオトナの男性たちには、意識して改めて考えてみてほしいことだな、と
最近よく思う。


どうすれば、そういう風に生きて生けるのかについては、まだまだ考え中。
模索の段階にすら入ってない。
だけど、求めなければ手に入ることはないだろうし、探さなければ答えは見つからないから、求めていきます。探していきます。

そういう生き方を、すでに実践している人の話なんかを、参考にしながらね。
記事検索
Recent Comments
Archives
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ