父と飲みに行った。
父の同級生の妹夫婦がやっているお店。
2人で飲むのは3回目くらいかな。
やっとちょっと
そんなに特別なことでもないような感じに
なってきたってとこか。
1回目は、私がまだ実家にいた時、
小田原市長選の候補者の演説会に一緒に行って、その帰り。
初めてちゃんと、家族の問題についてちょっと話した。
2回目は、私が実家を出てわりとすぐ。
父が用事で東京に来たついでに、銀座で会ってライオンでビア。
お互いの書きたいものや好きな作家について初めて話した。
私は自分は父よりも母と仲がいいつもりで
ずいぶん長いこと育ってきたけど
(キリスト教を信じてた期間は実際そうだったんだろう)
気付けば父と話す時間の方がどんどん増えている。
そして、それもそうだろうな、とも思う。
キリスト教という強い要素がなくなってしまえば
(私は中学3年で洗礼を受けて、大学1年でクリスチャンを辞めた人)
母との共通の話題ってこれといってない気がするし
そもそもクリスチャンを辞めたということで生じた気まずさみたいなものに
まだ決着?をつけてないからってのもある。
それに比べて
私が地理学を専攻してしまうくらい地理が好きになったのも
どう考えても社会科の教師だった父の影響だし
英語や韓国語といった語学に関心があるのも
英会話のテープを一日中流してるような父親の影響。
文章を書くなんてのもまさに父親の趣味そのまんま。
新聞の読者欄に投稿して掲載されたエッセイを集めて自費出版したり
本格的に川柳を嗜んで、同人誌の撰者やったり
退職した今は縁側に寝転んで読書ばっかりしているような人なので。
畑で野菜を作ってたりするところも
モノを減らしてシンプルな生活を目指してるところも
気付けばなんだか思想的に一致しているし。
真面目でちょっと完璧主義の嫌いがあるところも
そっくりそのまま似てしまったのね。
まぁとにかく、よく考えてみれば、話が合わないわけがない。
だけど、クリスチャン(しかも頭の固い)だった頃は
「父はクリスチャンじゃないから」ってだけで
もう話すことなし、みたいな感じだったわけですね。
おー宗教こわっ!(思春期だったってのもあるだろうけど)
生活に必要な会話くらいは交わしても
深い話なんてしなくて当たり前だったから
何か話すことができた時に
どういうふうに話せばいいのかもわかんなかった。
最初に飲みに行った時なんて
何話したらいいんだか、かなり緊張してドキドキした。
というか、今でも「何話すんだ?」「話題なくなったら?」
とは思う。なにせ、慣れてませんから。
いちいち意識してしまうのね。
慣れてないことってのは、そういうもんでしょ。
だけど、実際そういう状況を作ってみてしまえば
話すことは、あるのだ。
どんな風に話したらいいのかはわからなくても
何を話したいのかは本当はわかってる。
だって、こんだけ似てる2人だからね(笑)。
だから、会話そのものはぎこちなくても
それは慣れてないんだから当然だ、と思って
とにかく話せることを話してみた。
そしたら、だんだん慣れてこれている気がする。
特に、私が実家を出てからの方が
やっぱりうまく距離感がとれてる気がする。
毎日顔を合わせることが前提だと話しにくいことも
またしばらく会わないんだと思うと
言うだけ言って別れればいっか、って思えるしね。
まぁでも、やっぱり友達と飲むようにはいかないし
それで当たり前。
自分にとっては常識と思って話したことが
よくわかんなくて聞き返されたりもするし(ネットに関することとかね)
私が前に話したことも覚えてくれてなかったり
自分が手紙で書いてきたことも忘れてたり。
だけど
わかり合えたら素直に喜ぶ。
噛み合わんかったら気にしない。
このスタンスでいいかな、と思う。
頭ん中で「親子なんだからこうあるべき」みたいなイメージ作って
それに合わせようとなんてしたら、イライラするだけ。
疲れちゃうし、何の意味もない。
もっと文学的に深い話ができる仲になるとか
家族のこれからについて話し合えるようになるとか
そういう何かを目指すわけでなく
ただ一緒に飲んでしゃべって
結果的に「飲んだね、しゃべったね」ということが残る。
それだけでいい気がする。
欲張らんとこう。
店を出ると、まだ少し雨が降ってた。
超安全運転(自転車)の父に「先行っていいよ」と言われたので
先にすいすい漕いで帰った。
自転車こぎこぎ一句。
父の同級生の妹夫婦がやっているお店。
2人で飲むのは3回目くらいかな。
やっとちょっと
そんなに特別なことでもないような感じに
なってきたってとこか。
1回目は、私がまだ実家にいた時、
小田原市長選の候補者の演説会に一緒に行って、その帰り。
初めてちゃんと、家族の問題についてちょっと話した。
2回目は、私が実家を出てわりとすぐ。
父が用事で東京に来たついでに、銀座で会ってライオンでビア。
お互いの書きたいものや好きな作家について初めて話した。
私は自分は父よりも母と仲がいいつもりで
ずいぶん長いこと育ってきたけど
(キリスト教を信じてた期間は実際そうだったんだろう)
気付けば父と話す時間の方がどんどん増えている。
そして、それもそうだろうな、とも思う。
キリスト教という強い要素がなくなってしまえば
(私は中学3年で洗礼を受けて、大学1年でクリスチャンを辞めた人)
母との共通の話題ってこれといってない気がするし
そもそもクリスチャンを辞めたということで生じた気まずさみたいなものに
まだ決着?をつけてないからってのもある。
それに比べて
私が地理学を専攻してしまうくらい地理が好きになったのも
どう考えても社会科の教師だった父の影響だし
英語や韓国語といった語学に関心があるのも
英会話のテープを一日中流してるような父親の影響。
文章を書くなんてのもまさに父親の趣味そのまんま。
新聞の読者欄に投稿して掲載されたエッセイを集めて自費出版したり
本格的に川柳を嗜んで、同人誌の撰者やったり
退職した今は縁側に寝転んで読書ばっかりしているような人なので。
畑で野菜を作ってたりするところも
モノを減らしてシンプルな生活を目指してるところも
気付けばなんだか思想的に一致しているし。
真面目でちょっと完璧主義の嫌いがあるところも
そっくりそのまま似てしまったのね。
まぁとにかく、よく考えてみれば、話が合わないわけがない。
だけど、クリスチャン(しかも頭の固い)だった頃は
「父はクリスチャンじゃないから」ってだけで
もう話すことなし、みたいな感じだったわけですね。
おー宗教こわっ!(思春期だったってのもあるだろうけど)
生活に必要な会話くらいは交わしても
深い話なんてしなくて当たり前だったから
何か話すことができた時に
どういうふうに話せばいいのかもわかんなかった。
最初に飲みに行った時なんて
何話したらいいんだか、かなり緊張してドキドキした。
というか、今でも「何話すんだ?」「話題なくなったら?」
とは思う。なにせ、慣れてませんから。
いちいち意識してしまうのね。
慣れてないことってのは、そういうもんでしょ。
だけど、実際そういう状況を作ってみてしまえば
話すことは、あるのだ。
どんな風に話したらいいのかはわからなくても
何を話したいのかは本当はわかってる。
だって、こんだけ似てる2人だからね(笑)。
だから、会話そのものはぎこちなくても
それは慣れてないんだから当然だ、と思って
とにかく話せることを話してみた。
そしたら、だんだん慣れてこれている気がする。
特に、私が実家を出てからの方が
やっぱりうまく距離感がとれてる気がする。
毎日顔を合わせることが前提だと話しにくいことも
またしばらく会わないんだと思うと
言うだけ言って別れればいっか、って思えるしね。
まぁでも、やっぱり友達と飲むようにはいかないし
それで当たり前。
自分にとっては常識と思って話したことが
よくわかんなくて聞き返されたりもするし(ネットに関することとかね)
私が前に話したことも覚えてくれてなかったり
自分が手紙で書いてきたことも忘れてたり。
だけど
わかり合えたら素直に喜ぶ。
噛み合わんかったら気にしない。
このスタンスでいいかな、と思う。
頭ん中で「親子なんだからこうあるべき」みたいなイメージ作って
それに合わせようとなんてしたら、イライラするだけ。
疲れちゃうし、何の意味もない。
もっと文学的に深い話ができる仲になるとか
家族のこれからについて話し合えるようになるとか
そういう何かを目指すわけでなく
ただ一緒に飲んでしゃべって
結果的に「飲んだね、しゃべったね」ということが残る。
それだけでいい気がする。
欲張らんとこう。
店を出ると、まだ少し雨が降ってた。
超安全運転(自転車)の父に「先行っていいよ」と言われたので
先にすいすい漕いで帰った。
自転車こぎこぎ一句。
秋雨や 春雨じゃないけど 濡れていこ
おそまつー。
おそまつー。