我ながら大袈裟だと思いつつ、だけど「何について大袈裟な物言いになるかってことが、その人のアイデンティティを表すんじゃないだろうか」なんて風にも考えながら、胸に込み上げた気持ちを言葉にする―――
本があれば、生きていける。
有川浩『図書館内乱』を読了。
本を読みながら、「うっわぁぁぁ!むっちゃ面白いぃぃぃ!」って感じてる時の、体中を何かの物質が駆け巡ってるような感じ、言葉で表現するのには限界があるね。
あれはきっと、本当に何かが体内を駆け巡ってるんだと思う。ただそれは、現代の科学とかでは検出・計測できるようなものじゃない、目にも見えないエネルギーのようなものだと思うけど。
部屋の中で独り。だたじっと、紙の上に印刷された活字に向かって目を走らせてるだけ。小川洋子さんの言葉を借りれば、「時折、一枚紙がめくられる以外変化はなく、ただ静かに時間が過ぎてゆく。(中略)その時人間の心がどれほど劇的に揺さぶられているか、それは目に見えません。効果を数字によって測ることも不可能です。」(『物語の役割』小川洋子 筑摩書房)
私にとっては、上手く言葉で表現することすら困難だ。
だけど、それでもこうして何か書いておきたいと思ったのは、自分でもちょっとおかしくなっちゃったんじゃないかと思うくらいに、泣けてきたから。子どもみたいに、わんわん泣いてしまったから(すぐ泣きやんだけど)。
こんなささやかな、静かな、だけど劇的な幸福が存在していて、これさえあえば自分は生きていけると胸が熱くなるほどにまで、この今までにも何度となく感じた至福を改めて噛みしめながらも、そのすぐ隣には絶望的な日常が、既にそこにいるのがあたりまえのようにニヤリとした顔で横たわっている。
本を読んで感銘に震えるという、そんな小さな幸せでさえ、何の混じり気もなく味わうことができない。
そのことが、悔しくて、悲しかった。
自分が本当に「面白い!」と思える本を読んでいる時は、文字通り、私は「現実から逃れられる」。私の意識は本に登場する人々と共にあり、私が生きているこの世界のことは、完全に頭から消えている。
でも、だからこそ、読み終わり、意識が現実に戻ってきた時に、打ちのめされるような気分になるんだろうか・・・。
それでも、この絶望と向き合っていく過程を経なければいけないなら、やっぱり自分には本が必要だし、本さえあってくれればなんとか・・・と思う。紙の上に印刷された活字に向かって目を走らせてる時に、どれだけ私の心が劇的に揺さぶられているか、そのエネルギーをもってすれば、だましだましでも、心が死にゆくのを喰い止められるかもしれない、と思う。
以下、『図書館内乱』を読んでの所感、箇条書き。
・ライトノベルの定義っていうのは曖昧らしいけど、今日自分の中でひとつ思いついたのは、「漫画やアニメの文法を小説に持ち込んだもの」という感じ。このシリーズ読み始めた時から、小説を読んでいるというよりは、漫画を読んでるかアニメを見てるような気がする時間が多い。ラノベはそれほど読んだことないけど、おそらく他の作品もそういう「雰囲気」を持ってるんだろうなということはなんとなく想像できる。
・「ベタ」っていうのは、エンターテインメントにおいてはけっこう重要なんだな、と思った。物語の展開がベタベタでも、その他の要素で読者を惹きつけることができるなら、むしろそのベタな展開は必要でさえあるのかもしれない。無意識にも読者がそれを望んでる、っていうような意味で。典型的でいかにもな物語の運び方は、その座に着くだけの理由があってそうなったのだ、というような考え方。つまりは、読者が意識しようがしまいが、ハラハラしたり、ワクワクしたりするシチュエーションは、決まってるってことだ。
・こんなにもぐぐぐーっと心を持っていかれてしまうのは、たぶん、久しぶりに少女漫画を読んでいるような気分が味わえるからだと思う。しかも、実際の少女漫画じゃなくて、体裁は小説であるってとこがポイントだ。もし同じ物語を漫画で読んだとしたら、(絵柄にもよるけど)おそらくこそばゆくてとても読めたもんじゃない。第二章の「恋の障害」は、自分でも恥ずかしいくらい読みながらキュンキュンしてしまったけどw、漫画で描かれてたら「うえぇ〜」って思ってたかもしれない。でも、「いやぁ、男同士でこんな会話しないんじゃないか?」とかちょっと冷静に穿ってるあたり、私も少しは成長(?)してるのかもしれない。
・一番の魅力は、会話のテンポかもしれない。「そうそう、こういう“掛け合い”って実際にあるよね」っていう空気とか雰囲気が文章で表現されてるのが、単純にうれしくてニヤニヤするんだ(これは、伊坂幸太郎の小説もそうだな)。
・手塚慧の言葉「市民は動かないよ。自分に切実な不利益が降りかかってこない限り、行動する人はわずかだ。不満はあってもそれが致命的な不利益に繋がらない限り、大多数の人間はそれに順応する。愚痴をこぼしながら順応したほうが楽だからだ。残念ながら、本が自由に読めないことや表現が規制されることで致命的な不利益を感じる人は君が思ってるより少なかったんだよ。だからメディア良化法が当たり前のように施行されているこの社会が成立してる」が、突き刺さったなぁ。なんかまさに原発の問題に当てはめられる。
柴崎の言葉「お膳立てされたキレイな舞台で戦えるのはお話の中の正義の味方だけよ。現実じゃ誰も露払いなんかしてくれないんだから。泥被る覚悟がないんなら正義の味方なんか辞めちゃえば?」もだ。別に「戦う」つもりで声を上げたわけじゃなかったのに、私たちは今戦いの中に立たされている。
・最後のヒキがすばらしわー。「どうしよう明日・・・・・・」。そして、あとがきで著者が入れるツッコミ「取り敢えずお前は明日っからどうする気なのか笠原郁。」
続きが気になりすぎ!!
本があれば、生きていける。
有川浩『図書館内乱』を読了。
本を読みながら、「うっわぁぁぁ!むっちゃ面白いぃぃぃ!」って感じてる時の、体中を何かの物質が駆け巡ってるような感じ、言葉で表現するのには限界があるね。
あれはきっと、本当に何かが体内を駆け巡ってるんだと思う。ただそれは、現代の科学とかでは検出・計測できるようなものじゃない、目にも見えないエネルギーのようなものだと思うけど。
部屋の中で独り。だたじっと、紙の上に印刷された活字に向かって目を走らせてるだけ。小川洋子さんの言葉を借りれば、「時折、一枚紙がめくられる以外変化はなく、ただ静かに時間が過ぎてゆく。(中略)その時人間の心がどれほど劇的に揺さぶられているか、それは目に見えません。効果を数字によって測ることも不可能です。」(『物語の役割』小川洋子 筑摩書房)
私にとっては、上手く言葉で表現することすら困難だ。
だけど、それでもこうして何か書いておきたいと思ったのは、自分でもちょっとおかしくなっちゃったんじゃないかと思うくらいに、泣けてきたから。子どもみたいに、わんわん泣いてしまったから(すぐ泣きやんだけど)。
こんなささやかな、静かな、だけど劇的な幸福が存在していて、これさえあえば自分は生きていけると胸が熱くなるほどにまで、この今までにも何度となく感じた至福を改めて噛みしめながらも、そのすぐ隣には絶望的な日常が、既にそこにいるのがあたりまえのようにニヤリとした顔で横たわっている。
本を読んで感銘に震えるという、そんな小さな幸せでさえ、何の混じり気もなく味わうことができない。
そのことが、悔しくて、悲しかった。
自分が本当に「面白い!」と思える本を読んでいる時は、文字通り、私は「現実から逃れられる」。私の意識は本に登場する人々と共にあり、私が生きているこの世界のことは、完全に頭から消えている。
でも、だからこそ、読み終わり、意識が現実に戻ってきた時に、打ちのめされるような気分になるんだろうか・・・。
それでも、この絶望と向き合っていく過程を経なければいけないなら、やっぱり自分には本が必要だし、本さえあってくれればなんとか・・・と思う。紙の上に印刷された活字に向かって目を走らせてる時に、どれだけ私の心が劇的に揺さぶられているか、そのエネルギーをもってすれば、だましだましでも、心が死にゆくのを喰い止められるかもしれない、と思う。
以下、『図書館内乱』を読んでの所感、箇条書き。
・ライトノベルの定義っていうのは曖昧らしいけど、今日自分の中でひとつ思いついたのは、「漫画やアニメの文法を小説に持ち込んだもの」という感じ。このシリーズ読み始めた時から、小説を読んでいるというよりは、漫画を読んでるかアニメを見てるような気がする時間が多い。ラノベはそれほど読んだことないけど、おそらく他の作品もそういう「雰囲気」を持ってるんだろうなということはなんとなく想像できる。
・「ベタ」っていうのは、エンターテインメントにおいてはけっこう重要なんだな、と思った。物語の展開がベタベタでも、その他の要素で読者を惹きつけることができるなら、むしろそのベタな展開は必要でさえあるのかもしれない。無意識にも読者がそれを望んでる、っていうような意味で。典型的でいかにもな物語の運び方は、その座に着くだけの理由があってそうなったのだ、というような考え方。つまりは、読者が意識しようがしまいが、ハラハラしたり、ワクワクしたりするシチュエーションは、決まってるってことだ。
・こんなにもぐぐぐーっと心を持っていかれてしまうのは、たぶん、久しぶりに少女漫画を読んでいるような気分が味わえるからだと思う。しかも、実際の少女漫画じゃなくて、体裁は小説であるってとこがポイントだ。もし同じ物語を漫画で読んだとしたら、(絵柄にもよるけど)おそらくこそばゆくてとても読めたもんじゃない。第二章の「恋の障害」は、自分でも恥ずかしいくらい読みながらキュンキュンしてしまったけどw、漫画で描かれてたら「うえぇ〜」って思ってたかもしれない。でも、「いやぁ、男同士でこんな会話しないんじゃないか?」とかちょっと冷静に穿ってるあたり、私も少しは成長(?)してるのかもしれない。
・一番の魅力は、会話のテンポかもしれない。「そうそう、こういう“掛け合い”って実際にあるよね」っていう空気とか雰囲気が文章で表現されてるのが、単純にうれしくてニヤニヤするんだ(これは、伊坂幸太郎の小説もそうだな)。
・手塚慧の言葉「市民は動かないよ。自分に切実な不利益が降りかかってこない限り、行動する人はわずかだ。不満はあってもそれが致命的な不利益に繋がらない限り、大多数の人間はそれに順応する。愚痴をこぼしながら順応したほうが楽だからだ。残念ながら、本が自由に読めないことや表現が規制されることで致命的な不利益を感じる人は君が思ってるより少なかったんだよ。だからメディア良化法が当たり前のように施行されているこの社会が成立してる」が、突き刺さったなぁ。なんかまさに原発の問題に当てはめられる。
柴崎の言葉「お膳立てされたキレイな舞台で戦えるのはお話の中の正義の味方だけよ。現実じゃ誰も露払いなんかしてくれないんだから。泥被る覚悟がないんなら正義の味方なんか辞めちゃえば?」もだ。別に「戦う」つもりで声を上げたわけじゃなかったのに、私たちは今戦いの中に立たされている。
・最後のヒキがすばらしわー。「どうしよう明日・・・・・・」。そして、あとがきで著者が入れるツッコミ「取り敢えずお前は明日っからどうする気なのか笠原郁。」
続きが気になりすぎ!!