今年もまた、村山由佳の「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズの新刊が集英社文庫から出た。
毎年、夏が始まってしばらくすると、「あ、そういえばそろそろ……」と書店の棚をチェックする。そうすると、期待に漏れず続きが出ている。これが恒例になってから、もう何年が経つんだろう。

帰りの京浜東北線はすぐに座れることが多いので、最近は横浜で乗り換えずに、そのまま大船まで京浜東北で行って、そこから東海道線に乗り換えることにしている。
なので、今日も鶴見から大船までゆったり座って、買ったばかりの「おいコー」セカンドシーズン7巻『記憶の海』を読み、大船で乗り換えた東海道線も茅ヶ崎あたりで座れて、国府津までの間も読書に没頭。とても快適だった。

国府津に着くと、御殿場線はすでに停まっていて、接続もばっちり。
すぐに乗り換えて、発車するまでの7分くらいの時間も、小説の続きを読んで過ごしていた。

その時――。

私はドアから入ってすぐ左手、ロングシートの端から3番目に座っていたのだが、私が入ってきたドア、つまり、私から見て右手1.5mくらいのところにあるそのドアがが閉まり、つんざくような男の子の泣き声が車内に響きわたった。
手を挟んだんじゃないかと思うほどの大声で、車内の人みんながビクっとしたのがわかった。

ここでちょっと説明すると、この御殿場線という路線は、単線のローカル線で、無人駅も多い(私の最寄り駅である上大井駅も、無人駅だ)。
なので、車両自体がちょっと特殊で、見たことある人もいるかもしれないが、乗客が自分でボタンを押してドアを開け閉めできるようになっている。
乗り降りする人がほとんどいない駅でわざわざドアが開いて暑い空気や寒い空気が入ってこないためでもあるし、1時間に2本ほどしか走っていないので、ターミナルの駅で(この場合、国府津駅)発車を待って停まっている間も車内温度を保ったり、空調のエネルギーを無駄にしないためでもある。

車体の外、ドアの横と、車内に入ったところのドアの横にそれぞれ「あける OPEN」「しめる CLOSE」というラベルのついたボタンとランプが設置してあり、ランプが点灯している時だけ、ボタンが利くようになっている。
乗り慣れている人のマナーとしては、開けたら閉める、ただし、自分のすぐ後ろに同じく乗ってくる人がいるなら、その人のために開けたままにしてあげる(大抵は、その後から乗った人が閉める)、というもので、まぁ常識の範囲内と思う。
もちろん私も、「あける」ボタンを押してドアを開けて車内に入り、後から来る人はいなかったので、すぐに車内の方の「しめる」ボタンを押してドアを閉めた。私の後にも、何人かの人が同じことを繰り返していた。

そして、男の子、である。

私の席から、その泣き叫んでいる男の子は、よく見えなかった。私と男の子の間に、つまり、シートの端に、若い男性が立っていたからだ。だけど、男性がそこに立っていなかったところで、男の子を見ることができたかどうかわからない。なぜなら、どうやら、その男性がボタンを押して、まさに今ドアを閉めたところのようだったのだが、「え!もしや子どもが手を挟んだんじゃ……!」ととっさに想像したら、恐ろしくてそっちを直視できなかったのだ。
それでいいのか自分!とも思ったが、直視できている人がいれば、誰かがすぐにドアを開けるに違いない、みんなびっくりしてそっちを見てるんだし……と思い、見れないながらも目の端で様子を伺っていた。

そしたら、手を挟んだといったような緊急事態ではないらしいことがわかった。
すぐにドアがまた開いて(誰がボタンを押したのかはわからなかったけど)、お母さんと思われる女性が「あ〜大丈夫大丈夫。怖かったね〜」と言って、その男の子を抱き上げたのだ。
どうやら、男性が、自分のすぐ後ろにいた男の子(4歳くらい?)に気づかず、ボタンを押してドアを閉めてしまい、男の子はお母さんを置いて電車が発車してしまうと思ったらしい。
確かにそれは泣き叫ぶくらいの一大事だ。子どもにとっては。

男性は小さく謝ったっぽかったので、もちろん悪気はなかったんだろう(それにしても危なかったけど)。手を挟んだんじゃないことにまずはホッとしたものの、今度は別の理由でまたそっちを向くことができなかった。
子どもの泣き声がうるさいからなんとかしてくれと、お母さんを非難していると誤解されたくなくて、視線を向けることができなかったのだ。すでに何人かの人がその親子を見ていたので(意図はどうであれ)、私が見ないことで、少しでも視線を軽減したかった(だから、男の子の年齢が4歳くらいかなと確認したのは、私が降りる直前だった)。

お母さんは、つんざき泣く男の子を抱きながら、あやしていた。
「もう大丈夫大丈夫〜。うん、怖かったね〜、でもお母さんここにいるし、もう大丈夫だよ〜」。

その言い方、口調が、とにかく優しくて、昨今なかなか出会えないくらいの、全てを受け入れる雰囲気に満ちていて、私は思わず聞き入ってしま……おうとしたところ、そんな間もなく、男の子はすぐに泣きやんだ。
そして、あれだけ大きな声で泣いていたのが嘘だったかのように、すぐに楽しげに(そして、車内の誰にも迷惑にはならないくらいの声の大きさで)お母さんとおしゃべりを始めた。

その唐突さと、自然さに、私は衝撃を受けたといってもいいほど、感動してしまった。

そもそも、お母さんの「大丈夫だよ〜」の時点で、ちょっと泣きそうだったのだ。「あぁ、私も、こんな風に言ってもらいたかった……」と思って聞いていた。
その男の子と同じ境遇になったことはないけれど、もし同じことが昔あったとしたら、うちの親はヘラヘラ笑いながら、「何泣いてんのよ〜、大丈夫だってば。こんなことくらいで泣くんじゃないよ〜まったく〜」とか言っただろうと思う。抱きしめてはくれなかっただろうとも思う。
そして、うちの親じゃなくても、そんな風に言う親はけっこうな割合でいると思う。そしてそれは、親なりに子どものことを思って、そんな大事(おおごと)じゃないよってのを伝えたくてそうしてるのかもしれないってのも、わかる。

だけど、同じ「大丈夫」ってことを伝える言葉でも、前者と後者は全然違うのだと、私は思う。

後者は、ヘラヘラ笑いが子どもの真剣な恐怖心に寄り添ってないし、「こんなことくらい」という言葉には、どことなく(バカだな〜)といった子どもへの侮りが感じられる。「何泣いてんの」や「泣くんじゃないよ」は、大人としては「泣くほどのことじゃないよ、大丈夫」の意味のつもりかもしれないが、子どもにとっては、(これだけ恐ろしい目に遭ったのに、泣いちゃいけないの!?)という意味に聞こえるかもしれない。それは、自分の感じた恐怖を認めてもらえないということで、子どもにしてみたら、絶望的な気分にすらなるくらいのことじゃないだろうか。

それに対して、前者、今日私が見たお母さんは、素晴らしかった。
まず、すぐに男の子を抱き上げて(見れなかったけど、おそらく背中や頭をなでたりしながら)、「大丈夫だよ」と「怖かったね」を伝えた。ヘラヘラ笑いではない、真摯な口調だった点ももちろん重要だけれど、この「怖かったよね」と言ってあげたこと、口に出して感情を言葉で代わりに表現してあげたこと、怖かった気持ちを認めてあげたことが、本当に大事だったと思う。そして、泣くことを否定するような言葉は一切言わなかった。「泣いていいのが、あたりまえ」、そんな心の姿勢を、短い言葉の抑揚から感じ取れた。

だから、男の子が泣きやんでおしゃべりを始めた時も、驚きつつ、すごく納得した自分がいた。
「あぁ!これこそが、“機能してる”親子関係だ!」って。
男の子は、そのほんの数十秒間(もしかしたら、十数秒間)、泣きたいと思った分だけ思いっきり泣き、満足したので泣きやんだのだ。「泣き出したからには、しばらく泣かないとカッコがつかないんじゃないか」と全く思っていなさそうなあたりも、私の子ども時代とは決定的に違う点だった。

アダルトチルドレンについて日常的に考えるようになってからは、電車の中で親子を見ると、親が子どもに対してどう接しているかがすごく気になってしまう。そして、親の言葉や態度が、心理学的な意味で「機能不全」なんじゃないかと感じる時も多い。だけどそれは、どちらかと言えば「よく見かける光景」であって、明らかに暴力的なわけでも、問題行動といったレベルなわけでもない。でも、だからこそ、暗い気持ちになることも多い。この国では、そんな親子関係は、よくある当たり前の話なのだ。
さすがにその場で当人たちにそんなことを言えるわけもなく、また、私が言っただけで解決する問題でもないので、そのまま電車を降りることになる。
そんなことが続いていたので、今日の出来事は、私にとっては本当に嬉しかったのだ。

「あぁ、私も、こんな風に言ってもらいたかった……」という切なさと、
頭の中で勝手にサイコドラマ風に、お母さんからこんな風に言ってもらえた自分を想像して嬉しくなったあたたかさと、
やっぱりこんな親子もちゃんと存在するのだから諦めずに生きていこう、もし自分に子どもができたらこういう風にできる人になろう、という希望とで、
涙腺がゆるんでしまったので、ちょうどよく手に持っていた小説に感動しているふりをしながら、しばらく涙を流した。
我慢しようかとも思ったけど、いいや、泣いちゃえ、泣きたいもん、と思って泣いた。

最初は感動しているふりだったんだけど、泣きながら続きを読んでいったら、話の内容が本当に泣ける展開になってきて……現実の世界と本の中の世界のダブルで泣いてるような状態になってしまった。
登場人物たちの状況に重なる、エリック・クラプトンのエピソード。
頭の中に流れる『Tears in Heaven』。
関係ないようでいて、つながってると思う。
だってきっと、クラプトンも傷付いた子どもだったに違いない。

思えば、
さっきまで読んでいた前半部分では、物語のヒロインが、やっと素直に、大声で、子どものように泣くことができて、「毒出し」できた場面が出てきた。
これまたつながってるなぁと思いながら、ずびずびと鼻をかむ。

小さい私は、たくさん傷付いてきたし、それを表現する術も持たなかった。
そのことによって身に付けてしまった習慣や、心の癖が、今も私を苦しめる時が少なくない。
今日の男の子と同じ境遇に陥ったら、小さい頃の私は、怖すぎてショック過ぎて、むしろ声が出せなかっただろうと想像がつく。
その場で大きな声で、ショックと恐怖と表現してもいいとは、思わせてもらえなかった。
だから今でも、大声で助けを求めたり、ショックを周りの人に知らせた方がいいような場面でも、声が出せなかったことが何度もある。なんともないふりをしていしまうことに、慣れすぎている。

だけど、
電車の中で、泣きたいと思った時に人目を憚らずに泣けるくらいには、私は自分を持っている。
「私は、私でいいんだ」と思えている。
0か100かじゃなく、少なくともそこに関しては、十分に受け取った愛もあるのだ。

そんな風に思いながら、おしゃべりを続ける親子にこっそり微笑みかけて、
私は御殿場線を降りた。

そして、
この話はちゃんと文章にして伝えたいな、と思いながら、歩き始めた。