ここのところ、家で過ごすのがほんとしんどい。

部屋でひとりでいる時はそれほどでもないけど、
(あ、でも、階下で口喧嘩っぽいことしてるのが聞こえるともうダメだけど)
夕食の時がけっこうキツイ。
各人無言でもくもくと食べてる雰囲気もダメだし、かといって、
いかにも家族っぽく他愛無い話とかしてる雰囲気もなんか白々しい。
自分が勝手にそう感じてるだけってのもわかってるけど、
そう感じさせるだけのものを、この家族が積み上げてきたことは間違いない。

朝は、家族が食卓に揃う習慣もないし、私自身
朝食は食べない日が多いし、
ギリギリまで寝てて、バタバタ仕度して急いで出て行く日がほとんどだから、
家にいる時間っていっても、仕事終わって18時とか19時くらいに帰ってきてから、
0時とか1時の寝るまで(そして寝てる間)なんだけどね。

なんかもう、すべてのコミュニケーションがバカバカしく感じてしまうのは何故なのか。
そもそもできるだけコミュニケーションとらないようにしてるけど。
というか、とるのがもうめんどくさい。気力が出ない。
たまにちらりとのぞく気まぐれな気力だけを使って、なんとか家族らしくしてるけど。

子ども嫌いな人が、何時間も子どもの相手をさせられなきゃいけなくなった状況と、似ているかもしれない。
最初は、一応大人だし?子どもくらい相手にできるっつーの、って感じで、子ども目線になって遊んであげる。大人げのある態度で。
でも、だんだん無理が出てくるし(そもそも子どもが嫌いなんだから、当たり前)、なんでこっちが合わせなくちゃいけないんだ!なんでこんなことさせられてんだ自分!・・・みたいな気分になってくる。
我ながらずいぶん上から目線だとは思うけど、本当にこんな感じ。
父も、姉も、今の私(若干スれて、やさぐれて、思いやりとか出せない感じ)にとっては、ほんっとに子どもみたいで・・・「つきあってらんない」って感じることしばしば・・・。
よって、無視の回数が増えていく・・・。
はぁ。
母は母で、ほとんど会話がない。私以上に、ほとんど家にもいない(仕事、他)。

私がもうちょっとだけ我慢のない人間だったら、
ごはん食べ終わった後のお茶碗を壁に投げつけたりとかとっくにしてると思う。
これといった理由があるわけじゃないけど、ずっと感じてる衝動。
なんなんだろ。本当にやってしまわないだけの自制心を持ち合わせてることに
安堵すると同時に、実際に行動に移せてない自分にげんなりしたりもしている。
病的だなーと思いつつ、案外こんな風に思うくらいの方がまともなのかも(この家で、
この環境で暮らしてきた人間としては)、とかも思ったり。

もうほんとにとっとと出て行きたいって気持ちばかり。
そのためにも、めんどくさいけど、とにかく引っ越し(準備)がんばらなきゃ。




代わりのいない家族だし、ここまで育ててくれたことをもちろん親には感謝もしてる。姉とだって、好きなマンガの話して笑い合う時もある。お互いがお互いを思い遣って気持ちよくやっていけたら、「かけがえのない大切な家族」って心の底から思えたら、そりゃ理想的だわ、ってキレイゴト好きで“いい子”の私は思う。というか、多くの人がそう思ってるはず。だから、家族愛をテーマにしたドラマも映画も、なくならないし、みんな観る。

でもその一方で、このどうしようもなくモヤモヤして、もう何もかもどーでもいいし!私には関係ないし!もうこの先の人生、私に家族のめんどくさい部分について関わらせないでほしい!
なんでこんなことさせられてんだ自分!・・・って思う気持ちも正真正銘自分の気持ちだ。愛が表(本物の気持ち)で、憎しみは裏(嘘や強がりや一時的な気持ち)ってことじゃない。

小学生の時、漢字ドリルで初めて「愛憎」っていう熟語を知った時の違和感を覚えてる。
「愛」と「憎しみ」がひとつの熟語の中に入ってるなんて、どういう状況で使うんだ?と思った。その頃の自分にとっては、「愛」と「憎しみ」は全く別の世界に属するもので、その2つが同一の文脈で語られることがありうるとも想像がつかなかったのだ。幼い、まだ浅い世界で生きてたんだなーと思うエピソード。

今は嫌ってくらいにわかる。「愛憎」。
この2つの漢字が「並ぶこともありうる」と言うよりは、この2つだからこそ並ぶんだってこと。

思い入れが深ければ深いほど、ぐちゃぐちゃなのだよね、きっと。