昨日の夜、「あわい」という言葉に出会った。
(『生きる意味を教えてくださいー命をめぐる対話』田口ランディ)
YESでもなくNOでもなく、あっちだったりこっちだったり、決めずにふわーふわーって感じで“間”にいる(いる?)ことらしい。

なんか、最近考えてたこととつながる言葉。

 こないだお手伝いで参加した脱原発事業部のイベント
(開沼博×アイリーン・スミス×吉岡達也「『脱原発社会』をどうやってつくるのか」
記事書いた→http://datsugenpatsu.wordpress.com/)でも、社会学者の開沼博さんが、原発推進派と脱原発派の間にあるグラデーションについてかなり語っていて、私は「グレーゾーン」について考えざるを得なかった。開沼さんは、あえて「グレーゾーン」にいることで、脱原発な人々の議論をうまいこと煽っている(あるいはかき混ぜている)印象を受けた。面白そうな人だ。

 昨年3月に降り注いだ放射性物質について(それは、今もそこかしこにある)どのくらい気にするかについても、ずーっと保留したままでいる。船に乗る前よりも気にしなくなったって意味では楽だけど、自分なりの答えを出さないまま有耶無耶にして過ごしているという意味ではけっこうストレスだ。

 82回クルーズに水案で乗ってくれることが決まっている社会学者の古市憲寿くんの『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』を読み返し終わった。
 面白かった。初めて読んだときは、今よりももっと自分が調査対象の側に近かったこともあって、反発心もあり、冷静に読み進めるのに努力を要したんだけど、今回はそうでもなかったし。でも、だからこそ余計に、ここに描き出されている若者像に自分はだいぶ合致するなぁ(苦笑)ってのも感じたけど。
 本多由紀さんが「解説、というか反論」という文章を付けているのだが、その中にあった「あきらめる」と「あきらめない」の狭間に、まさに今自分はいる気がした。

 意味を考えすぎると、人生はほんとに苦しい。

 自分が今までの人生で使ってきた「あきらめなさ」の精神は、どこか頑なで、融通が利かなくて、排他的で、選民思想的で、がんばれない人に対する思い遣りに欠けたものだった気がして、一旦そこから離れたいって思ってる自分がいる。
 そのためには、「あきらめてみる」ってのもありなのかな、そっち側にいってみないと見えない景色があるもんな、って思うけど、ただ単に疲れたからもうあきらめたいだけなのかもしれない。

 でも、「ただ単に」なんて、そんなにあることじゃないよね。いつだって気持ちは複雑で、いくつもの相反する感情が自分の中にあって、それらが混じり合って、その「あわい」を感じて生きてる。
 たぶんそれが自然なこと。


 こんな風に、構成とか無視して思いついたまま書くんでいいんだったら、明日もまた何か書こうかな、って思える。